病院のベットで交わした大学論議
理学部 河合利秀



はじめに

 僕は腰椎間板ヘルニアの精密検査のため名城病院に10月1日から4日間入院しました。たった4日でしたが、偶然に居合わせることとなった同室の4人で、一般の人は大学に何を期待しているかという問題が話題になり、日本企業や日本社会の腐敗や構造的欠陥や、日本人の精神的荒廃もからめて、大学内の議論とは異なる観点の見方や考え方に接することができました。
 私たちの会話は、いまよく言われる無責任な官僚組織に対する批判から始まって、日本人文化論(ちょっと大仰ですが)のような大きな話題から、大学に関わる部分を抜き出して紹介します。舌足らずの部分や、極端な意見など、多少わかりにくい部分もあると思いますが、紙面の都合上ご容赦願います。これを機会に、この種の議論が一般職員も含め、大学職員全体で広範囲に巻き起こされることを期待します。

気さくな四人組

 僕は大部屋が好きだ。全く知らない人間どうしが、同じ病気で、同じ部屋の空気を吸う。同じ境遇という気安さから、自然に親密な関係ができるからである。
 互いの病状や検査・手術の情報交換などの切実な話題から始まって、病院生活での様々な情報交換から趣味や時事問題へと話題ははてしなく広がっていく。なにせ、じっとしているしか方法のない病室のこと。テレビもラジオもすぐ飽きる。新聞・雑誌はみんなで違ったものを買い求め、回し読む。それでも時間はありあまる。
 僕が入ったのは4人部屋だ。入院日は曜日が決まっているらしく、2名の新顔は何れも検査入院である。この部屋の主、つまり一番入院生活の長い人が自然にリーダーのような役割を果たす。この人を「主」と呼ぼう。主の声にうながされて自己紹介が始まる。
 主は2週間ほど前に手術を終え、あと一周間ほどで退院するとのこと。すっかり回復されて元気に歩き回っておられる。主は大手ゼネコンへ鉄骨資材を納入する業者の重職で、若いころは大型トラックや特殊車両を操って倉庫の資材を現場に運んだとのこと。今は管理職なので出られないそうだが、現場が好きだという。
 僕と同じ日に入院した隣人は養護学校の先生なので「先生」と呼ぼう。先生は僕と同じ検査を受けるのだが、生まれつき左足に障害があり、それをかばってきたために腰痛になったとのこと。先生は勉強家で、御自身の病状や治療技術に関する最新情報についてだけでなく、最新の科学技術についてもよくご存知なので驚いた。
 もう一人はスポーツマンタイプの若者ゆえ「若者」と呼ぶ。若者は6日前に入院・検査中とのことで、3人の中年に対し自然体で話をしてくれた。好青年だ。若者は飲料関係の卸会社で運送・配達をしており、無理がたたって腰を痛めたとのこと。ビール2ケースを持って階段を駆け足で昇り降りしたそうで、そのようなことができること自体驚いたが、そうまでしなければ時間内に納品できないという過酷な労働条件にも驚かされた。
 しかしながら、僕を含めた4人組みは至って元気である。様々な話をしていると、ちょうど東海村の臨界事故もあって、自然科学全般の話題から大学の話になった。

臨界事故からみえてくる日本人の精神崩壊

 東海村の臨界事故は衝撃的であった。臨界事故は制御を失った核分裂反応という意味では原爆や原子力発電所の暴発と同じことである。日本が世界に誇れる科学技術の一つが「原子力の平和利用」であると日本の一般の人々は理解している。それが、原子力燃料を作るのに、あろうことか、バケツを使っていたとは。
 日本の原子力政策が科学的根拠の希薄な「安全神話」の上に成り立っていて、「安全」を審査する組織も外国とは比べ物にならない。このことはすぐに理解されたが、原子力に対する不信はそのまま科学技術に対する不信となって、思いもかけず、僕が批判の矢面に立たされるはめとなった。
 「JOCの上層部は立派に大学で専門の勉強をした人たちである。そうした人たちが、どうしてあんなずさんな作業を指導・指揮したのか。彼らは原子力の専門家であり、危険性は熟知していたはずだ。なのに臨界事故は起き、危険性を知らされない労働者が被爆した。一体、JOCの幹部は大学でどのような教育を受けたのか」という批判である。
 僕は、現在の原子力発電の技術が未完成であり、電力会社や政府が宣伝している「安全」なるものが科学的に十分実証されていない未知の領域を含んでいることや、原子力産業やそれを推進する団体に事故隠蔽体質のあることを指摘した。しかし「大学の教育はどうなっているのか」との問いには答えられないままだ。
 主は、大手ゼネコンの現場で行われている不正について語ってくれた。
 「JR関西のトンネル事故は当然だ」という。つまり「工事現場では、手抜き工事や不正取引が横行している」というのである。「正しく工事を行っていればこのような短時間にコンクリート塊の落下は起こり得ない。コンクリートの砂に塩分が含まれていると鉄筋が腐食して膨張し、内部からひびが出てもろくなり、短時間でだめになる。こうしたことを承知で、ゼネコンは工事経費節減のために、海砂を未処理のまま使った」というのである。
 「阪神自動車道の高架橋支柱は阪神大震災で崩壊したために手抜き工事であることが露見した。横筋の間隔や溶接に手抜きがあった」という。
 「コンクリート建築物は手抜き工事があっても外見からでは判断できないので、手抜き工事が横行する。したがって施工主による監督が大事なのだが、公共事業の監督は儀式でしかない」とのこと。「監督官の接待づけは当たり前で、中には接待を要求する監督官もいる」とか、「建設省や運輸省の天下りで、図面の見方すら知らないものもいる」という。
 新幹線や道路は国民の財産である。こうしたものに携わっている政治家・官僚やゼネコン幹部に、国民の財産を作っているという意識は希薄であり、自分の利益のみを確保しようとする姿はあさましいものである。建設業界に身を置く主は、こうした業界の体質を深く嘆き、失望している。「現場でスジを通そうと頑張っても、現場を知らない若いゼネコン幹部がめちゃくちゃにしていく」と主はこぼす。
 ゼネコンや原子力産業のみならず、日本の企業と官庁はどうしてこんなに腐敗しているのか。銀行と大蔵省の癒着、製薬会社と厚生省の癒着など、みな東大を出た立派な人たちのはずだ。

大学に期待されていること

 いま多くの国民が、日本の国民を失望させている彼らに対し、大学はどういう教育をしたのか、と問いかけているのではないか。もちろん、大学だけの責任ではない。しかし、このように問われてみて、大学はどう答えたらよいのだろうか。
 かつては、「立派な人」になるために大学で勉強するのではなかったか。社会のために、とか日本のためになりたい、というのが大学で勉強する動機であった。それが、いつのまにか「いい会社に入るため」にいい大学に入るということに変わってしまった。いい会社で出世して、人よりいい暮らしがしたいという個人的な利益が主な動機となっている。
 こうした意識の変化によって、大学に対する要求が変わってしまった。かつて大学は世の中の役に立つような人材教育の場であったのが、いつのまにか個人的な能力開発や単なる肩書きを得るだけの場になって、人生すごろくの一つの通過点でしかない。大学出身の厚生省や大蔵省の官僚、バブルに踊った銀行の重役たちの恥ずべき行為を見れば、彼らが立派な人でないことは明らかだ。いまさら前時代的な動機を持ち出して・・などと思われるかもしれないが、一般の人々の中に、少数かもしれないが、僕が思うには「まともな人々」が大学に「立派な人を育ててほしい」といっていることは重要だと思った。
 この問題は、学生に責任があるのではなく、社会全体が公共の利益よりも個人的な利益を優先する荒廃した大人の社会にあるこは明らかである。大学教育だけでどうこうできる状況ではない。しかし、私たちは大人の一人として、こうした社会的な風潮に責任があるわけで、このような観点から、大学そのものを考え直すことも大事ではないかと思う。
 大学で行われている教育や研究については直接携わっている教官の方々の議論を期待するとして、大学が社会に及ぼす影響力という観点から、社会の退廃現象や政治の腐敗などに対して真理や正義の立場からもっと発言すべきだと考える。安保以後大学は政治的な発言を控えてきたと感じる。それどころか、政治的と思われそうな、批判的な物言いをしてこなかった、と僕は思う。
 ここにも大学の理念が凝縮されているのではないかと思う。  大学の研究は極めて多様な問題を扱っている。その多くは、すぐ役に立つとは考えられないし、極めて難解な問題もあり、必ずしもわかりやすいものではない。
 研究そのものも試行錯誤の連続である。当然失敗することの方がはるかに多い。しかし、ただ漫然と失敗を繰り返してはいなく、失敗から多くを学び、妥協を廃すればこそ真理に到達できるのである。こうした研究は経済的見かえりを期待するというよりも、純粋な科学的探求心によって支えられている。これと同時に、科学の成果が戦争によって利用され、軍事技術に転用されて人殺しの道具となってしまった過去の反省を、もう一度思い出す必要がある。国家権力によって大学の研究がその研究内容を統制されないことが何より大切であり、大学は政治権力から独立していなければならないのだ。しかしながら、こうした独立性があるために内部で緩んでいるとすれば、それは自己管理を徹底するなり、改革を断行するなりの普段の努力が不可欠である。そして、こうした研究を推進する教官の真摯な姿勢があるからこそ、大学の先生は尊敬されるのではないだろうか。大学の教官は自由であるが故に独善を廃し自己を厳しく律しなければならない。
 これこそ、「立派な大学」と国民は納得するのではないだろうか。
 主や先生は、再び大学に「立派な人材を育ててほしい」という。同時に、病んでいる現代社会に対し、批判や啓蒙の言動を期待している。国民は大学に、健全な社会を形成するためのリーダーの育成を期待していると同時に、大学人の直接的な行動や発言も大いに期待しているのである。

大学でやってほしい研究

 JRのコンクリート落下事件は重大である。海砂を使った鉄筋コンクリートは、海砂の塩分で鉄筋が腐食し急速に強度が低下する。このことは、長期間鉄筋コンクリート内部の変化を研究しなければ解明されない。手抜き工事をした大手ゼネコンがこのような研究にお金を出すとは思えない。「国民の財産を守るために、大学が全力で取り組んでほしい研究だ」と主は言う。同感だ。
 有機スズ化合物やニノルフェノールに代表される環境ホルモンが生体に与える影響の研究は、生態系を長期間追跡することが不可欠である。この研究は微量物質を精度良く測定する技術の開発や、他の自然現象との区別、汚染物質の相互作用を考慮すると、膨大な範囲の研究が必要である。
 ある物質が環境ホルモンとして機能するとなると、その物質を製造・排出する企業活動を制限するような社会的圧力が発生する。該当する企業がこのような環境ホルモンの研究に積極的に投資するとは考えにくい。むしろ、自己の物質が安全であるとの研究を血眼になって追求するであろう。
 かつて水俣湾でおこった有機水銀中毒の不幸な事件は、チッソ水俣工場が汚染の事実を隠蔽し被害を拡大させた。チッソの研究者は豊富な資金で有機水銀説を否定するための研究に投入され、有機水銀説を裏付ける実験結果が出たにも関わらず、会社に不都合なこの結果をもみ消した。当時は国も県もチッソの言いなりであった。熊本大学をはじめとする良心的な研究者や医者の真摯な研究がなかったら、さらに多くの人々が犠牲になったことだろう。
 「老人介護で福祉関連の研究が進んでいるように思われるが、障害者は社会的に少数であり、企業の儲けの対象にはならない。儲かりそうな老人介護関連の研究は盛んだが、儲からない障害者関連の研究は停滞する」と先生は嘆く。「こうした研究は企業をあてにできない。この種の研究はボランティア精神によって支えられており、大学に期待している」と先生はいう。
 若者はいう。「いい大学にいくのは良い暮らしをするためで、立派な人になるために大学に行けとは誰も言わなかった。学校の先生だってそんなことは言わない」。勉強の目的は、「いい大学やいい会社に行くため」で、何か役に立つとは思っていない。大学は「立派な人間になるため」じゃなくて「小学校からの競争に勝った証」を手に入れるために行くのだ。若者は、そういう人が「自分の儲けになることしかしないのは当たり前」という。「それじゃあ世の中良くならないねえ」と一同口をそろえる。
 僕は、自分が関わっている大学の研究を紹介しながら、若者の言い分に反論を試みた。天文学やニュートリノの研究の話だ。
 天文学は人間生活になくてはならぬというようなものではないし、新しい星を発見しても金儲けにはならない。儲け本位の日本企業がこうした研究に金を出すとは考えにくい。学生だって、天文学の研究は就職に不利なことは知っている。親の期待にも反する。それでも天文の研究や勉強をしたいから天文学を選んだのであって、いい会社に行くために天文学を選んだのではない。
 文科系に話が及んだ。文学や哲学などは文化の領域であり、人間や社会を豊かにするための学問だ。そこには企業性もないし、投機の対象ともなり得ないが、法律や経済学は利益に結びつく。中坊康平氏のような正義の味方の弁護士もいれば、企業の利益追及のために法律の網の目をかいくぐって社会的正義に反する行為を指南する弁護士もいる。極端なのは暴力団まがいの取りたてで有名になった商工ローンの用心棒弁護士までいる。「どうして彼らは悪徳企業の肩をもつのだろうか」。
 経済学にしたって、限られた資源で人類が幸福に暮らせる仕組みを研究してほしいのに、「ばくちまがいの投機をあおるヘッジファンドの経済工学理論がノーベル賞というのはまちがった選択だ」となる。
 こうして考えると「今の世の中間違っている!」と感じている人は意外に多く、世の中を良くする方法を研究することだって、大事なことだと気がついた。大学に最も期待することは「権力への反骨である」という結論に、四人組一同大笑いしながら、納得した。

独法化によってもたらされるもの

 ここまでくれば、独法化問題を話さないわけにはいかない。
 先生は「独法化で大学が良くなるのではないか」と期待していた。「大学の自由度が増すので、権力や財力に流されない研究ができるようになる」と思ったそうだ。
 主は、「教育・研究設備が大きく立ち遅れている」ことや、「旧態依然とした閉鎖的な体質と権威をかさにきた物言い、企業との癒着や汚職がはびこる体質がある」と大学を批判する。同時に、「腐敗した企業を建てなおすような気骨ある人材が育っていない」とも言われた。「専門分野ばかり追求して、人格教育の面が欠落している」と手厳しい。
 先生からも「名古屋大学がそうだとは言わないが、障害者の大学進学は健常者のそれに比べて厳しい」一体大学は何をしているんだ!と言わんばかりである。
 これらは現在の大学に向けられている批判である。はたして、独法化はこうしたことを解決できるであろうか。
 今年6月、学術審議会によってまとめられた「科学技術創造立国を目指すわが国の学術研究の総合的推進について」で、大学に「競争的研究環境の整備」で競争的研究資金制度導入することや第三者評価機関設置をうたった。
 最近明らかにされた「通則法」によれば、3年〜5年という短い期間の「中期目標」設定は主務大臣の認可(第30条)を受け、「中間目標」の達成状況を調査分析し、成果を評価する。さらに各大学に対応する「評価委員会」の上に「審議会」を置く二重の評価システムである。この評価の基準は経済的効果である。日本の企業活動に有利に働く研究を優先して研究費を配分する口実をつくるようなものである。政府や財界がその気になれば好みの研究を優先させ、短期間に成果を上げることを強要される。このことに何の歯止めもない。巨額の赤字をかかえた国家財政事情や、効率優先による絞めつけが「評価」という錦の御旗を得ることによって、今より格段に厳しくなると見るべきである。
 今日世界の第一線で活躍している研究室やグループは「評価」の競争に勝てるので潤うはずだと考えている。しかし、長い目で見るとどうか。よい「評価」を得られなかった研究グループは予算が減って研究が遅れるだろう。場合によってはその研究を放棄せざるを得ないこともありうる。しかし、競争相手が育たなければ分野の発展もないことは明らかである。「評価」による研究費を一つにの集中は、結果として日本の科学技術全体が取り返しの付かないダメージを受けるのではないかという危惧である。
 通則法は定員削減をも促進する。定員削減ができなければ、極めて厳しい評価が待ち受けていると考えるべきである。業務を遂行するに必要な人件費も評価の対象である。成果が出ないと評価された研究の人件費は確保されるのであろうか。はなはだ疑問である。
 「柔軟人事も喜んでばかりはいられない。建設業界でもお馴染みの、外郭団体の一つとされて、文部官僚の天下り先に成り果てるのは目に見えている」というのは主の感想だ。
 独法化は元々展望のある改革ではない。こうしてみると、実に大変な問題である。大学は企業の言いなりにされ、基礎研究は押しなべて荒廃、日本人の文化や精神を育てる分野も惨憺たる状況に至る。国民の期待に応えるどころではなく裏切ることになる、が一同の結論であった。

このままでは恥ずかしい
 
 大学は重点化で院生を倍増した。しかし、それを受け入れる力が我々大学にあるのだろうか。不足する研究室スペース、研究費獲得のため会議や書類提出に追われる教官スタッフ。確実に大学院生一人当たりの教育指導時間は減少し、苦しい運営を余儀なくされている研究室は多い。
 ついてこれない学生は容赦無く振り落すという研究室も多くなっている。振り落とすことが当たり前と考えるならば、授業料は一体何だという反論も学生やその保護者から出るであろう。学生の資質や積極性を考えても、大学は受け入れた以上、誠実に対応しなければと思う。
 主は言う。「独法化のメリットと思われる独立性や柔軟な運営とは、文部省や通産省の天下り先を増やすことにならないだろうか」という感想である。「こんなばかげた案はやめたほうがいい。うちの子はもう大人になったのでいいが、孫がかわいそうだ」と言った。
 若者も「大学がますますわからなくなった。学位一件当たりいくら?というような原価計算をすることになるのだろうか。俺たちは商品じゃない!。これじゃ、大学が学位や特許の製造工場だ。立派な人を育てるということを聞いて関心したが(独法化では)それも夢物語りだ。独法化大学ならいらないし、むしろ有害だ」といった。まったく、同感である。僕は独法化を安易に受け入れるような大学は論外だが、今日の大学の不十分な状態も恥ずかしいことだと思った。
 先生は「名大平和憲章」のことを覚えていてくれた。「平和を創造する学問という理念に感動した。地元にそのような大学があることを誇りに思った」そうだ。
 今からでも遅くはない。名大から市民に発信することは大きな意味がある。まっとうな世論を形成することは可能だと思う。
 少数派かもしれないが、意見表明することで自分に活をいれ、腰を直して力いっぱい仕事をしたい。


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