魔   言
−その20−



「していただいていいですか」「〜じゃないですか」「よう」「そうなんですか」雑感

   
 言葉には、はやりすたりが有る。必要なもの、表現上役目をきちんと果たすものは、一部の人々の顰蹙を買うことがあっても一定の地位を得て定着していく。いま世間で論議の喧しいいわゆる「ら抜き言葉」は、小松英雄氏が言われるように一部の純粋主義者達の排斥の圧力にも関わらず生き延びていくであろう。可能表現と受身表現を、この「ら抜き言葉」によって間違いなく表現し分けることができるのであり、今や誰も文句を言わない「書く」と「書ける」のようにやがて「見る」に対して「見れる」が可能動詞として対になると考えられる。
 それにしても、「そこを少しあけて下さい(ませんか)」といえばいいものを、「少しあけていただいていいですか」式の言い方を、最近とみによく耳にするが、必要な表現なのだろうか。始めは、遠慮しながら言っていたのかも知れないが、段々押しつけがましく聞こえるようになってきたと思うのは私の聞き違いだろうか。
 疑問としての「これはあなたのじゃないですか」のようなものは特別問題ではない。そうではなくて、相手に同意を求めるような表現にやはり最近頻発される。「テレビを見てるじゃないですか、その時に横からごちゃごちゃ言われたら、頭にくるじゃないですか」式の言い方。こういう表現も必要なときがあることは確かだし、それもよくある物の言い方だ。いっとき前には、「〜ますね、〜ますね」と言われてこれにも押しつけがましさを感じたものだが、「じゃないですか」に比べればおとなしいものだ。
 特に若い人に多いように思うが、年輩の人からも聞くようになった。「〜なんですよう」と「よう」を奇妙なイントネーションで引き延ばして発音する。遅刻した学生が「電車がおくれたんですよう」のように(巧く真似できないが)言うのを聞くと反発したくなる気持ちだ。これにもある種の責任の押しつけを感じる。
 「ああ、そうですか」では素っ気ないと思うのであろうか、「ああ、そうなんですか」と、「なん(なの)」を挿入する。「行きますか」に対して「行くのですか」、「思います」に対して「思うのであります」、「〜である」に対して「〜のである」というのに当たる。相手を思いやる気持ちが元々はあったのかも知れないが、要注意の表現だ。

加担と鍛治

 ワープロで「かたん」「かじ」と入れると、表記の文字が「荷担」「鍛冶」と共に容易に出てくる。すでに、「かたん」と「かじ」の漢字表記として市民権を得ているということだ。これについてとやかく言っても仕方がないことかも知れぬが、「助長」という言葉を、「援助」と同じように使うのと同様の違和感を感じてしまう。皆さん御承知のように「助長」は、不必要な手助けをして、ダメにしてしまうことをいい、「援助」とは似てもにつかぬ言葉だ。
 「加担」を文字通りに考えれば、「担」を「加える」ということである。この場合、「担」を「になう」とか「負う」の意味には取りにくい。むしろ「にもつ」の意味になってしまい、人を助けるどころか、負担を掛けることになる。「荷担」のときは、「荷」も「担」も「になう」ということで、一つの物を共に「になう」ということになり、事をなすに当たって力添えをすることを意味することになる。漢字の意味を考え、漢語の語構成を考えるとどうしてもこうなる。
 「鍛冶」を「かじ」と読むようになったのは次のような順序である。「鍛冶」とは「金(かね)打ち」ということで、それが「かぬち」とつづまり、さらに「かぢ」となったものである(それを「かじ」と書くのは、現代仮名遣いの規則による)。「鍛冶」を音読みすれば「タンヤ」である。「冶」と「治」が似た字形であり、おまけに「治」が「ぢ(=じ)」の音を持つために、「かじ」が「鍛治」になってしまった。こんなに簡単ではなかろうが、こういう筋道が考えられる。「冶」が「治」になったについては、「冶」があまり見慣れない字であるに対して、「治」が普通に使われる字であることが多いに関係したであろう。 かたもある。新聞に出ていたので、ひょっと間違いではないかと尋ねたら、そうではない
 この字面は、すでに通用してしまっており、世の中には、「鍛治さん」という苗字の方もある。新聞に出ていたので、ひょっと間違いではないかと尋ねたら、そうではないということだし、姓氏辞典にも出ている。しかし、もとはこういう経緯であり、「鍛」を「か」とは直接的には読めない。たかが、「、」一個のことである。名前の読み方には、又別に興味あることが沢山あるが、他の機会に述べる。
 漢字の言葉には、色々な宛字があり、日本人の創意工夫によるものが沢山ある。それはそれで結構面白い。誤解も理解の一つと考えれば、人間の仕業として、認めなければならない。しかし、その経緯も知っていると面白いのではなかろうか。

2000年問題

 今年になってから、2000年問題というのが喧しい。一体何が起こるか分からないというのが、不気味だ。大げさにいえば世界中が大騒ぎ。コンピュータ社会ならではのことだ。その対策に何千億円も使ったなどという。ばかばかしい費用だ。
 詳しいことはよく知らないが、西暦の年号を下二桁だけで示すことにしたために、2000年になると、00年ということになり、1900年と区別が付かなくなって、コンピュータが困る、ということだ。困ればいいといっておれぬのが残念だ。とにかく、人命に関わることすら起こりかねないのだから。
 どうしてこんな事になったか。突き詰めて考えれば、人間のけちくささから起こった問題だ。こんな事を引き起こしたのは誰か。コンピュータソフトで儲けている連中ではないか。彼らのけちくささのために世界中がどれだけの出費をしなければならないことか。マイクロ・ソフトのビル・ゲイツ氏にせきにんがあるかどうかは知らないが、彼とて責任無しとはいえまい。あまりの儲けすぎに随分の巨額の寄付をしているという新聞記事があったが、寄付などとお為ごかしのきれい事ではなくて、この2000年問題に四苦八苦して対応している所に賠償したらどうなのだろう。
 その問題のよって来る所を詳しくは知らないし、そういう報道も見ていないので、的外れのことを言っているのかも知れない。しかし、コンピュータで儲けた者はコンピュータで困っているところを助けるのは当然ではないだろうか。


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