ニュースに一喝
−その16−


義勇兵


  中日新聞一面、「平和を探す 2」、見出しは「義勇兵」「『生きる実感』を求め戦地へ」(1999.8.6)。これを読んで、何とも名状しがたい、形容しがたい気持ちになった。
  「人間を撃つ感覚はなかった。敵は殺す存在、『物』ですから」「マヒしているのかもしれません。罪悪感はありません。」「日本では『死の実感』もない代わりに『生きる実感』もありませんから」「いずれ、だれもが死ぬ。遅いか早いかの違いです」「子どもが殺され、村が焼かれる。カレン族を救うため、戦う以外の方法があるなら教えてほしい」といった言葉があった。この義勇兵は実名で登場している。27歳とあった。恐らく真面目で生一本な性格の青年だと思う。「先の見える人生」が嫌で、ボクサーを志し、さらに自衛隊に入ったが、自分の力を発揮する場がない。退職して、カレン族独立闘争に加わったという。
  その行動力と純粋な気持ちは疑いもない。「しかし、…」と考えさせられる。この力を別の方向に発揮できないか。ミャンマー人自身が言う。「政府に武力で対抗しても勝ち目はない。…気持ちはありがたいが、日本人として他の方法があるのではないか」と。もっと厳しい意見も載っていた。私もそう思う。
  「敵」を殺しても、それで独立闘争に勝利するわけではない。殺された敵も同じ人間だ。殺されれば、親は嘆くだろう。恨むだろう。罪悪感がないということは敵を物と思っていることから出てくるのであろうが、想像力の欠如によるのである。豊かな想像力を持っていたら、「敵」も同じ人間だということに思い至らざるを得まい。これは、この青年の育った環境、教育、その他色々の要因が有ろう。いずれ誰もが死ぬということも、裏返せば、誰もが死ぬまでは生きており、人間として、少しでも有意義な生を生きる権利があるということである。これも、少し想像力を巡らせば簡単に分かるはずである。「命を大切にする教育」といいながら、それが実を結んでいない。学力偏重の教育の一つの落とし穴だ。偏差値で人間を選別し、きちんとした判断力のある人間、それぞれ持ち前の能力の発揮できる人間を作る教育になっていないのだ。
  「どうしたらいいか教えてほしい」これをこそ、自分も一緒になって真剣に考えるべきではないか。敵を殺しても何にもならない。敵と仲良くできる方法を考えなければならない。まだ、地球は独り占めしなくても、「敵」だと思っている人々とも一緒に暮らしていけるだけの広さは十分にある。ただ、人々の心にその余裕がないだけだ。その心を耕して広くすることが大切ではないか。暴力は手っ取り早いように見えるが、決して物事を根本から解決はしない。無理矢理相手を黙らせて、解決したかのように見せかけるだけだ。恨みは恨みによっては消えない、恨みなきによって消えるのである。少し前の中日新聞に、「敗戦の日本を救った人」という見出しで、甲斐一政氏が蒋介石の「怨に報いるに徳を以てせよ」という言葉を紹介している。(99.8.6)
(T)  

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教職員委員会 ニュースに一喝
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