魔 言



多いばかりが能ではない

   
 過ぎたるはなお及ばざるが如しという。この頃これを実感することが多い。
 今日の新聞に、「過剰にはなんの値打ちも無し」(加島祥造『ハートで読む英語の名言』 中日新聞 99.1.9)とあった。ギリシャ人エウリピデスの言葉という。「足らざるを愁えず、等しからざるを憂う」というのはよく聞く言葉、いまこれを思い返してみると、全員で味わう不足の味を楽しんでいるように思う。「吾れ足るを知る」というのは有名な言葉だ。
 カナダの子供たちが、あまりに多くのプレゼントをもらって、情緒障害に陥るという話も、同じ問題。あまりに与えすぎることが子供によくないことは先刻周知のことだが、大人は物を与えることによって、平生放置していることに対する罪滅ぼしをしているつもりになっている人が、いまだにいる。一層悪い状況を作り出している。
 多くのプレゼントが子供を駄目にしてしまっているということは、植物に肥料を与えすぎると駄目になるという話と通じる。やたらに成長させて枯らす除草剤もある。
 与えすぎが駄目なことは、いまの世の中を見ればわかる。子供がそうだ。若者もそうだ。大人もそうだ。おしなべてそうだ。ひどいのが政治家だ。政治家は票のために世の中に迎合するのだろうが、それは本当の政治家のすることではない。国民にも責任はあるが、やはり第一には上に立つ者の責任だ。国民にも時には苦い薬も飲ませねばならぬ。いつもいつも甘いことばかり言ってきたのが、多くの政治家ではないか。ほんの一部の人々だけが、これでいいのかしらんと首を傾げている。不景気不景気でこれを何とかしなければと予算の大盤振る舞い、何でもアメリカの言うとおり。これではよくなるものもよくなるまい。
 大学の授業科目も同様だ。今は盛りだくさんのメニュー。高々三四十年前には、講座も少ないし、教員も少ない。学生は選り好みをしている自由などなく、開講されるあらゆる講義演習に出席した。関係有りそうな科目は何から何までむさぼるように受講し、あらゆることを自分の栄養にしようとした。今やサービス精神から、自分たちのひもじかったことを味わわせまいとして、苦労して一生懸命開講科目を増やし、かなり豊富なメニューになった。しかし、果たしてこれでよくなったか、最近の学生諸君の様子を見ていれば断じてそうはいえない。ここでも、過ぎたるは及ばざるが如し。こう思うのはひが目か。
 法華経安楽行品に「深く法を愛せん者にもまた為に多く説かざれ」という。
 味わい深い言葉だ。
 そういえば、学生の頃、人の論文を次から次へ読み、関係するあらゆるものを読んだという人があったことを聞いた。ところが、その人の著書がこれだといって示され、あんまり、人のものを多く読むばかりが能ではないと教えられた。もっとも、そこまでに達してない向きに対しては、また、何をかいわんである。(T)
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教職員委員会 魔 言
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