オキナワの風
「オキナワの旅」に参加して
河合利秀(理学部)
東海生協事業連合が企画した「オキナワの旅」に参加し、実に多くのことを学びました。この旅の印象を随想文として、報告にかえさせてください。

プロローグ「オキナワ」
今年8月、思いかけず、「オキナワの旅」に加わった。大学生協共同企画の「オキナワの旅」に名古屋大学から誰も参加しないという。そこで、大介(息子)に会うのもよかろうと思い、行くことにした。
僕たちのような、東京を権力の中心におく日本人は、琉球の人々にとってずっと「加害者」である。薩摩の支配、明治の琉球処置、沖縄戦、そして現在の米軍基地。
今もって米軍の支配化にある「オキナワ」を見たとき、私たちの日常からは露見しない、権力の構造が見える。「オキナワ」に米軍基地を集中しておいて、その理不尽さを「オキナワ」の人々だけに覆いかぶせ、大多数の日本人から米軍支配の理不尽さを隠蔽する。これが米軍支配を容認する権力が日本に安定多数で存在できる傀儡の構造の本質である。これを許している僕たちは、「加害者」であり続けるのだ。このこと抜きには、「オキナワ」は語れない。
オキナワに負担を強いていることを恥ずかしいと思う一方、新ガイドラインによって、今や日本中が「オキナワ」化されたことを、僕たちはしっかり見なくてはならない。真の連帯は、私たち自身の政府を変えることだと思う。
第二章、「オキナワ」の風
みなさんは「さとうきび畑」という歌を知っているだろうか。
♪ ザワワ ザワワ ザワワ 広いさとうきび畑は
ザワワ ザワワ ザワワ 風がとおりぬけるだけ ♪
♪ あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった
夏の ひざしのなかで ♪
僕は今、このうたに歌われている場所に立っている。南部戦線、まぶにの丘を背にした丘陵地帯。この地に累々と屍を晒した沖縄戦は、天皇制を守る交渉の時間を稼ぐため、捨石として企画・実行された、棄民行為であった。
♪ ザワワ ザワワ ザワワ ・・・ ♪
今、僕の耳には風の音ばかりが聞える。
足元の土の表面に顔を出すサンゴの化石が、人骨ではないかと思い、はっとして、足をどける。
今立っている場所で、いったい何人の命が、無為のうちに散っていったのだろうか。
一瞬、風の音はうめき声と化す。僕の神経は、耳だけに集中していた。
僕たちのあいまいな判断によって選ばれた政府は、今もここに散った人々を苦しめる。
まぶにの丘で亡くなった人々の骨を一箇所に集めた慰霊碑がある。石碑には「魂魄」と記してある。この地で亡くなった人々の遺骨を集めたものだ。
ところが、この慰霊碑から遺骨を盗もうとした不埒者がいた。それがなんと、日本政府なのである。
「オキナワ」の人々は、日本の政府によって「魂魄」の遺骨を「靖国神社」に収められることを拒んだ。その結果、日本政府は墓を暴いたのだ。
何と言う非道か。国家権力とは、かくのごとく陰険なものか。
夜陰に紛れて塚の裏側を重機で掘り、遺骨を盗んだのである。
僕はこれをどう理解してよいか、未だに答えが見つからない。僕たちの選んだ政府が行った、このような非道を、僕はこの日まで、知らなかった。
♪ ザワワ ザワワ ザワワ 広いさとうきび畑は
ザワワ ザワワ ザワワ 風がとおりぬけるだけ ♪
第三章、「しらぎく部隊」哀 歌
僕たちは、ひめゆり部隊のことをかなり知っている。
みたび映画化されたこともあり、戦場に散ったはかない少女たちの叫びや嘆きは、日本人が共有する「戦禍」の具体的映像の一つであろう。
しかし、いつのまにか「ひめゆり部隊」は、軍国主義的歴史観を至上とする人々によって、靖国神社の英霊に祭り上げられようとしている。
これは何よりも彼女らを冒涜することに他ならないのだが、ひめゆりの塔近くに飾られた、まがまがしい石碑をみると、それが現実であることを思い知らされる。
ひめゆり部隊は、師範学校の先生が引率していた。軍国教育を受けながらも、彼女らを愛し、慈しむ先生らによって、ひめゆり部隊の少女らは、からくも、人間としての誇りを傷つけられずに済んだ。
後に、彼女らが体験したことを、それ事態おぞましい出来事ではあったが、おおやけに語ることで、人間の尊厳を保つことができた。その意味では、まだ幸せだったと言える。
みなさんは「しらぎく部隊」をご存知であろうか。第一高等女学校の生徒らは、ひめゆり部隊と同じように、従軍看護婦の補助として戦場に送られた。
彼女らは、先生の引率を許されなかったために、人間の尊厳を著しく傷つけられた。中には兵隊の慰み者として身体を奪われ、それでも懸命に医療行為に従事し、最後は日本軍の盾となって、ごみのように捨てられた。
ひめゆり部隊は、人間の尊厳を自国の軍隊によって傷つけられることはなかった。しかし「しらぎく部隊は」著しく辱められたために、たとえ生き残ったとしても、事実を語ることすらできず、歴史から抹殺されようとしている。
ひめゆり部隊は沖縄随一のエリートである師範学校であったのに対し、しらぎく部隊は高等女学校であった。この違いが、彼女らの運命を180°変えようとは、何たる不公平であろうか。
死んでもなお、差別され続けなければならない彼女らの悲運を前に、僕は思考を失った。激しい怒りと絶望が全身を突きぬける。
しらぎく部隊の詳細は今もって不明である。どこで誰がどうなったのか一切わからない。
彼女らの重い口は、永遠に開くことはないだろう。そして彼女らの魂も、永遠に救われることはない。いくつかの、閉じられた洞窟の風のように。
第四章、ジュゴンの海
シュワブの海は、ジュゴンの海です。
ここに人間という愚かな生物がきて、赤土を流すずっと以前から、ここはジュゴンの海です。
ジュゴンは草を求めて海に入った像の仲間です。
この海にはたくさんの水草があります。
この海にはたくさんの生き物がいます。
ジュゴンは、こうしたたくさんの生き物と仲良く暮らしていました。
あるとき、人間がやってきました。
最初の人間は、ジュゴンと友達でした。
ジュゴンは海の神様として、あがめられました。
二番目にきた人間は鉄の車で山を削りました。
削られた山から、赤い土が流れました。
赤い土は、水草や生き物たちには迷惑でした。
赤い土の、細かい粒子は、水草や生き物たちを苦しめました。
やがて、人間たちは、この海に大きな屋根をつける相談をはじめました。
この屋根は、オスプレイという生き物の棲家です。
オスプレイは人間を食べる生き物です。
水草は太陽の光がなければ生きてゆけません。
水草がなくなれば、酸素を作れません。
酸素のない海は、死んでしまいます。
屋根の下の海は、死に絶えるのです。
人間は、まだ大きな屋根を作っていません。
ジュゴンを愛する人間が、屋根作りのことを知って、止めさせようとしているからです。
でも、屋根作りは、少しずつ進んでいます。
愚かな人間たちは、海が死んだらどうなるかを考えることができません。
死んだ海の水は、周りの海も汚すでしょう。
そして沖縄の海は、みんな死んでいくのです。
シュワブの海は、ジュゴンの海です。
ここに人間という愚かな生物がきて、赤土を流すずっと以前から、ここはジュゴンの海です。
第五章、平和のイシジ
平和のいしじに刻まれた名は、沖縄戦で命を失った人々の名だ。そこに刻まれているのは、オキナワの人々だけではない。日本軍の兵隊、米軍の兵隊、そしてアイヌの人々、ここで亡くなった全ての人々の名を刻み、二度と戦争をしないと誓うのが平和のイシジである。
しかし、平和のいしじに刻まれない名前がある。それは朝鮮半島から連れてこられた人々だ。
日本軍は朝鮮半島の人々をオキナワに数千人引き連れてきた。軍隊の雑務を担わせたのだ。その中には従軍慰安婦も含まれている。
当然のように、この人々にも多くの犠牲者が出た。
ところが、平和のイシジに刻むべき朝鮮半島の人々の名前が出てこないのである。わずかに残された資料によって確認された2〜3百人のみが、名を刻んだにすぎない。
名を刻まれない人々の恨みの声が、風に混じって聞こえてくる。
第七章、暗闇のなかで
7年前、糸数のガマの入り口に立ったとき、中に入る勇気が出なかった。この暗闇の中でうごめく人々がいて、そして死んでいったことを思い浮かべると、足がすくんだのだ。
今日は若い人々のしんがりをつとめ、彼らを励ましながらがまに入らねばならない。今にも暗闇から人が飛び出してきそうな気配を感じさせる、糸数のがまの入り口は、7年前とかわりない。
入り口の大きな蜘蛛は、僕のあいまいな姿勢を威嚇するかのように、悠然と佇んでいる。
がまの広場は適度に整備されていた。往時を思い起こさせる場所はいくつか存在し、案内の標識もある。ここで確かに人間が生活した痕跡が、次々に暗闇の中から出現する。
石灰岩と人間の屍から出た油が化学変化した黒い物体が目の前にある。この物質の意味を連想したとき、僕は言葉を失った。
わずかに生き残った人々の証言によって、糸数のがまでおこったことは、歴史に刻まれた。生き残った人々は、せめて太陽のもとで死のう・・と外へ出たが故に、生き延びることができたのだった。
このガマで焼き殺された人々、自決を強要された人々、重症の兵士や住民は足手まといだと青酸カリを飲まされた。鳴き声をたてないようにと、口をふさがれた乳飲み子、わが子を殺さねばならなかった母親。なんという重い事実であろうか。ヒロシマ・ナガサキの原爆被害も想像を絶するものであったが、オキナワの戦場は、その惨劇が直接日本軍によってもたらされたことに、大きな違いがある。日本軍はオキナワを捨て石としたのだ。
僕たちは、歴史に刻まれることを拒んだ悲劇のあったことを知った。地下壕の通気口は落盤によって塞がれている。それでも、耳を澄ますと、ひゅーという風の音が聞こえてくる。まるですすり泣くような、風。
第八章、オキナワサミット の怪
オキナワサミットによって、沖縄の人々は経済的な恩恵にあずかると喧伝されていた。しかし、その実態は、全く沖縄の人々の期待を、大きく裏切るものであった。
首脳警護に配置された治安部隊は、実は新ガイドラインの演習に他ならない。彼らの食料は沖縄からは一切供給されなかった。東京から運んできたレトルト食品なのである。
会場の整備はどうだったのだろうか。
世界の首脳を満足させる建物を作る力は、本土の大手ゼネコンしかないという言い訳で、地元には一切受注がない。経済的な効果は、見事に裏切られたのだ。
沖縄の人々が望んだもう一つの希望、基地に苦しむ沖縄の人々の実態は、米国大統領に伝えることができたであろうか。
これも、連日報道が指摘したとおり、全く期待はずれであった。
クリントンはすでに実権を失っている。そんな相手に対しても、日本の政府は、基地縮小を一言も要求できない。
オスプレイの基地を辺野古に作る計画も、使用年限を明確にするという稲峰知事の意思は全く顧みられなかった。ここに日本政府の偽善が凝縮されているのだ。
オキナワの人々にとってサミットとは、奇奇怪怪な催し物であったに違いない。唯一誇れるものといえば、人間の鎖で、嘉手納基地を包囲したことであろう。このときに吹いた風は誇らしげであったに違いない。まだまだ人間は捨てたものではない・・・と。
終章「ひのまる」の旗
かつて、日本軍の「ひのまる」の旗に全てを奪われた人々、今もなお「ひのまる」の旗に蹂躙され続ける人々にとって、「ひのまる」は「怨」そのものである。
日本軍の旗は、言わずと知れた「ひのまる」である。この旗の下で、多くの悲劇が生まれ、そして多くの命が奪われた。
「ひのまる」の軍隊は、天皇の国の形を変えないで戦争を終えられるよう交渉するための時間かせぎだった。「ひのまる」の軍隊・沖縄守備隊は、この戦いが長引くよう、持久戦を挑んだ。
オキナワの人々が全員死ぬことを選んだのだ。
「ひのまる」の軍隊は、銃口を米軍にではなく、オキナワの人々に向けた。
平和資料館の展示は、「ひのまる」の軍隊が、泣き喚く幼子の口をふさげと母親に命令したところを表現している。がまに逃げ込んだ「ひのまる」の軍隊は、米軍に見つかるのを恐れ、避難民の赤ん坊が泣く声さえ、許さなかったのだ。口をふさがれた幼子は二度と泣くことはなかった。その場で息絶えた。がまを出ることも許されず、幼子を殺さなければならない母親と家族にとって、「ひのまる」の軍隊は怨み以外のなにものでもない。
「ひのまる」の軍隊はオキナワの人々を信用していなかった。「ひのまる」の軍隊はオキナワの方言を理解できず、方言での会話を一切禁止した。「ひのまる」の軍隊がいる場所を、オキナワの人々が米軍に知らせるのではないかと思ったのだ。
南部戦線では、先に逃げ込んだ住民を追い出して「ひのまる」の軍隊がガマを占領した。行き場をなくした住民らは、砲弾飛び交うまぶにの丘を逃げ惑い、累々たる屍となったのである。
「ひのまる」の軍隊は、オキナワの人々に、捕虜となるより自決(自殺)せよと教えてきた。そして実際にそれを強制した。「ひのまる」の軍隊は、オキナワの人々に「死ね」と命令したのである。
いま、名古屋大学に「ひのまる」の旗が掲げられている。「ひのまる」を掲げる名古屋大学を、オキナワの人々は何とみなすであろうか。
平和憲章の精神は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。名古屋大学の風は、重く苦く、まとわり付く。
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教職員委員会 オキナワの風
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