投 稿

学童保育キャンプに星空を語る
(理学部 河合利秀)


 私は学童保育を卒業できないでいる。わが子はとっくに卒業し、大学で学んでいるというのに。
 それは、学童保育という特別な関係でつながった仲間たちとの、抜き差しならぬものがそうさせているのである。
 7月21日夜、まとわりつくような重たい空気を振り払って、私は付知峡へと向かった。そこには30人のかわいい子供たちと、子供の成長を確かめたいとその地に集った親たちが待っている。私は、星のおじさん(本当は星のお兄さんと呼ばれたいが、ちょっと年をとりすぎた)として、毎年、子供がお世話になった学童保育所の、夏のキャンプに望遠鏡を持って、押しかけているのだ。
 わが子が学童保育を卒業してはや8年。しかし、私はいまだに、学童保育の親たちとともにいることを、最上の楽しみとしている。言い換えれば、永遠に卒業できない「学童の親」なのである。
 私の子育てにおける最も辛い期間は、子供が学童保育所を卒業するまでの間であった。今から思えば瞬間に過ぎていった時間。しかし、それはかけがえのない時間でもあった。 私と子供の関係は、一般的な家庭とは異なっている。子供が3歳のとき、妻はわが家にはいなかった。そして、わが子は、母のいない寂しい家庭で、母親の愛情を知らずに育ったのである。母の日が近づくにつれ、わが子は不安定となり、問題行動を繰り返した。母のいない彼にとって、「母の日」は辛いものだったに違いない。私自身も疲れ、苦悩した。
 私は、家庭にあっては暴君であった。テレビゲームを欲しがる子供の心情を無視し、テレビというものを排除した。もちろんテレビゲームはテレビがなければ使えない。ちょうど子供が3年生のとき、テレビが故障したことをよいことに、わが家には5年間、テレビというものは存在しなかった。
 それは、子供と目を合わせた会話をしたかったからである。これによって、子供とのコミュニケーションの時間はたっぷりとれた。しかし、わが子は、同世代の子供たちと共存するために必要な情報を得られず、孤立し、いじめの対象となったのである。
 そんなわが子は、当然のこととして、学童の中でも孤立し、窮地に立った。しかし、それを救ってくれたのは、学童保育の指導員や学童の親たちであった。私以外の、たくさんの親達が、やさしいまなざしで、わが子を見つめていてくれたのである。
 今、よその子供を本気で怒る大人はどれほどいるであろうか。今放映されているNHKの「私の太陽」という連続ドラマで、田舎での子供と大人の関係が活写されている。それは、どこのだれであろうと、悪いことをしている子供を見つければその行為をしかる大人の姿であった。この関係が、学童保育にはある。
 学童保育の子供たちは、そこに預けている親たちみんなの、子供である。子供たちにとって、学童の親たちは、すべてが「親」なのである。学童の親たちは地域に大勢いる。つまりは、地域の大人たちが、子供たちを見守り、導く。地域ぐるみで子供を育てる力を作り出そうという意識的な集団、それが学童保育なのである。
 私の子供は、何度となく学童の親たちによって救われた。街角で多くの暖かい視線に守られている子供は、なんと幸せなこであろうか。ちょっとした誘惑から間違いを犯したわが子は、しかし、学童につながる大人達の機転によって、救われた。もしこうしたことがなかったら、我が子は奈落に沈んでいたことだろう。こうした事はわが子だけではない。私自身もほかの子供に対し、自然体で向かいあえる。今の学童の子供達も、みんな「わが子」なのである。
 こうしたことが、私を学童保育に向かわせる動機であり、新しい親達にそのすばらしさを伝えようとするエネルギーの源泉なのだ。
 私は、新しい親達の中に居場所を見つけるべく、望遠鏡を担ぎ出し、星空のロマンや夢を語る。子供たちの未来に幸あれと願う親達にとって、受け入れてもらえるフィールドでる。

 今年の星空は格別であった。満点の星星。雲一つない星空は、浮世のうさを忘れさせてくれる。子供達は、無垢な目で、天の川や夏の大三角形を見、牽牛と織女の恋の物語に耳を傾ける。一年に一日だけ、天の川にカササギが橋をかける物語は美しく悲しい。北斗七星のひしゃくの柄を伸ばすと、おうし座のアルクツールス、乙女座のスピカにつながる。こと座のべガとアルクツールスとの間にはかんむり座、射手座、わし座、白鳥座と流れてきた天の川はカシオペア座へとつながる。カシオペアとアンドロメダの中間にはM31アンドロメダ大星雲が見える・・・・そして、時折現れる流れ星に、子供も親も湧いた。

 今年のキャンプは、これまでとはちょっと違うことに気づいた。学童に集う親達の雰囲気が、これまでとは異なるのだ。若い親達は、自分の子供しか見ていないのだ。
 遠くから子供を見てほしいというのが学童キャンプの申し合わせである。それはこども集団全体を見る中でわが子の成長を見てほしいと願う指導員の心遣いでもあるのだが。しかし、若い親達はすぐに自分の子供に擦り寄り、子供のわがままを誘導してしまう。子供のやることに大人が口出ししては、これまでの努力が水泡と化す。遊びとは異なる緊張したキャンプである。子供にとっては晴れ舞台なのだ。なぜゆっくりと見てあげられないのかと、いぶかしく思った。年々、親達の自己中心的な態度が学童保育を理想から遠ざけつつあるとの思いを抱いている私は、心配でたまらない。
 しかし、それは杞憂であった。二日目のキャンプファイヤーで高学年が見せたファイヤーダンスに、低学年の親達もみとれた。見事なものであった。指導員の力量が示された瞬間だ。このファイヤーダンスをみて、低学年の親達は、自分の子供もあのような見事なダンスを見せてくれるであろうか・・・と考えたに違いない。翌朝から、高学年を見る親達のまなざしが変わった。低学年の親達からは羨望が、そして高学年の親達からは信頼が、彼らに注がれているのだ。
 これを見て、わたしは感動した。やっぱり学童はすばらしい。来年もまた望遠鏡を持って参加しようと誓いつつ、家路についた。

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