魔   言
−その26−



「、」「。」か、「,」「.」か、それとも・・・

   
  皆さん、この頃、横書きの文章を見ていて、その句読点が「、」「。」ではなくて、「,」「。」といった奇妙なものに出会うことが多いことにお気づきでしょう。大学の便覧などがそうです。念のため、手元にある大学の印刷物を調べてみたら、全部「,」「。」。
  国立国語研究所の出版物もそうなっています。全部調べたのではありませんが、手元にあるものは皆そうです。そうとう古いところまで遡ります。昭和24年に1号が出ている『国立国語研究所年報』は既に「,」「。」です。『国語年鑑』も昭和29年から出ていますが、横書き部分はことごとく「,」「。」です。しかし、こういう句読点についての取り決めに就いて触れられているものが見あたりません。『国語年鑑』では、29年版以降「表記法」の問題として、「送りがな・くぎり符号(句読点)などについても、人によってつかいかたがまちまちになっている。」としてはいますが、それについてどうするかということには触れていません。それでいて、横書き文書では「,」「。」を採用しています。どこかに理由が書いてあるのかも知れません。ある会議で、国立国語研究所の人が、そうでない文書について、「,」「。」にすべきだと言っていた理由が分かりました。しかし、その根拠は何処にあるのでしょう。その人に聞いてみましたが、明確な根拠は知らないから調べてみるということでした。
根拠を知らずにどうこういうのは気が引けますが、横書き文書を「,」「.」にするならともかく、「,」「。」はいかにもアンバランスです。そういう意見も言ったことがありますが、好きずきだからと退けられてしまいました(本当は、横書きでも、「、」「。」でいいと思っています)。今回、問題提起した折りにも、非常に微妙な問題だから…、と尻込みする人が多いのに驚きました。本当にこんな形式的な事が、人の表現にまで関わる微妙な問題なのでしょうか。私には理解できません。旧漢字をわざわざ使う人などは、それでも仕方ないとは思うのですが、それをローマ字書きする場合に、どうなるのでしょう。そこでも、旧漢字にまつわるニュアンスのようなものを持たせることができるのでしょうか。
  私は、本来、文字表記というものは「道具」であると思っており、「道具」にあまりに偶像崇拝的に過大な意味を持たせない方がいいと思っています。つまり、道具が本質に対して影響を全く与えないというのではありませんが、それは副次的なものです。
  わたしが言いたいことは、コミュニケーションの手段に用いる道具は出来るだけ統一しておいた方が便利だということで、絶対こうこうせよなどという気は毛頭ありません。利便性を共有せず、我が道をいく人はそうすればいいと思います。ひょっとすると、そこに面白さも出てくるかも知れません。ただ、事務的な処理を要するものは、やはり規格が同じである方がよかろうと思うのであります。
〔田〕  


キープレフトを守れ

  こういう立てかんがあった。「キープレフト」だけで、「左側通行を守れ」ということである。だから、この立てかんのいうところは、この「『左側通行を守れ』ということを守れ」と御丁寧に言っているのであるが、これを掲げた人にそんな意識は、恐らくはあるまい。単に、「左側通行を守れ」と言っているだけであろう。外来語の持つ意味と、日本語の意味がダブっているのである。こういうことは、外来語を使う場合にはよくあることである。
  大抵の言語に、固有の単語と外国語からの借用語とがあり、語彙の二重性を持つ。さらに、借用語と固有語とが複合したものもできる。日本語にとって、「漢語」は基本的には外来語だ。「後遺症が残る」などと平気で言うが、本来「後遺症」だけで、「後に残る症状」なのに、もう一度「残る」と言っても、余り変に感じられない。しかし、言葉の意味をよく考えれば変なのである。「後遺症がある」で十分なのだ。
  笑い話に、「男の武士の侍が、箱根の山の山中で、白い白馬から落馬して、骨を骨折した」などといったものを聞いたことがある。はっきり、重言であることを意識した笑い話である。ここまで来れば、ことば遊びになるのであるが、そこまでもいかない、重言気味の表現が頻出するのは、日本語の表現が、豊かであると言っていいのか、揺れていて不安定だと言うべきか。固有語と借用語との間に起こる、興味ある現象である。
(田)  


先約を守る

  いわゆるシルバーシート。これに坐るか坐らぬか、譲るか譲らぬか。そんな論議がNHKの番組にあった。聞いていて、若い連中も結構つかれているのだなと思ったけれども、平気で、優先席に坐る、坐ったら立たないというのもいた。正直と言えば、正直すぎる。譲るために坐るというのもいた。いろんな考えがあるものだ。
  本来、優先席というものを作ること自体、問題なのではないかと、私は考える。そんなものを作らなくてもいい、というのではない。もともと、障害者や弱者や老人には、そんな優先席というものが無くても、席は譲るものだ。優先席などが有れば、老人達はそこ以外には坐ってはいけないかの如くであり、現にそう誤解している連中もいる。禁煙席・禁煙車両が増え、ついに、全体が禁煙になった例とは違うかも知れぬが、そういう意味では、全部が優先席の筈だ。そういう意見が聞いている間には出てこなかったが、的外れなのだろうか。
  最近私は奇妙な気分で居る。立て続けに、地下鉄で席を譲られるのだ。有り難く素直に坐らせて貰っている。譲ってくれるのが、決まって、見るも恐ろしげな姿の若者。時に、私が降りる段になっても立ったまま乗っている。「有り難うございました」と声を掛けると、はにかんでいる。以前、韓国を旅行したときには、子供に何回も席を譲られた。儒教道徳がまだまだ息づいていることを感じたものだった。
(田)  



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