新フィールドノート
−その59−
星 の 王 子 様
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三
今年は、サン・テグジュペリ生誕の百年にあたる。墜落したサン・テグジュペリの飛行機が見つかったという噂も流れている。
サン・テグジュペリと言えば、「星の王子様」だ。私は大学の2年生のときに「星の王子様」英訳本を読んだ。その頃、私は新しい下宿に移ったばかりだった。その部屋は10畳もあり、机が一つあるだけのだだっぴろい部屋だった。その新しい下宿屋は、下宿専門というよりも、大きな屋敷のひと間を有効に活用しようとしたという感じであった。古風ではあるが、そと目には立派な建物を私は気に入っていた。その下宿屋に行くには、けっこう急な坂道を上っていくのだが、その坂は小高い山のてっぺんに続いている。この小高い山は蛇行している広瀬川に囲まれて島状になっている。一種独特の環境が私は気に入っていた。その頃私は、人とほとんど付き合いはなく、1日3食生協で食事をしてはぶらぶらしているという感じであった。私がカフカの「変身」と「星の王子様」を読んだのはそのような時期であった。
「変身」は、主人公が変な虫に変わってしまい、家族から嫌われて、死に至る、という奇妙な筋がきであった。おまけに、父親と母親、それに妹の3人が主人公が死んだ後に久しぶりに揃って晴れ晴れと外出する、という場面で終わるのである。感情を移入して読むと、気が滅入らざるをえない。私が「変身」を愛読するようになったのは、それから10年以上も経ってからのことだった。権力的な父親との関係や、満たされない母親の愛、などの家族関係を理解したのちに「変身」を読み直すと、まったく異なる印象を受けるようになったのである。
ところで、「星の王子様」は日本語版を読むと、少々物足りない感じがした。日本語版では星の王子はお子さま言葉で話すのである。英語版では、年の違いが言葉に反映することはない。何よりも、子供のころから無意識のうちに身につけている言葉と違い、英語そのもので不思議なファンタジーの世界に入り込めるというのは魅力的だった。
「星の王子様」を英語版で読んだからと言って、その後すぐに、英語の原書がどんどん読めるという状況には至らなかった。原書で本が読めるようになったのは、40代も半ば過ぎてからであった。それも最初のうちは「アルジャーノンに花束を」とかの簡単な読み物に限られていた。ポーの短編集は、何度読んでも読んだという感じがしなかった。
ところが最近、50代に突入すると、英語で読むのに違和感がなくなった。分からない単語を飛ばして読んでも、全体の筋が捉えられるようになった。よく考えてみると、私たちも子供の頃、分からない漢字を読み飛ばして本を読んでいたことを思い出す。このように英語が読めるという自信を背景に、最近、ポーの短編集を読み返して見ると、あんなに違和感のあったものが、嘘のように感じられた。ついでに「黒猫」も読んでみた。相変わらず、ポーの小説にはむずかしい単語が多いが、違和感はまったくなくなった。このことはNHKラジオ英会話の講座を九年も続けてきたおかげではないかと推測している。私は、今でもほとんど会話はできない。しかし、長いこと英会話を聞き続けてきたので、英語の構文がそのまま受け入れるようになったという気がするのである。このようになると、翻訳ものよりも英語で読んだほうがよく理解できるという気がしてならない。だから、私は最近、読みたい本の訳本が出ると、その原書を注文して取り寄せて読むようになった。
いま流行っている「ハリー・ポッター」は、ラジオ英会話の宣伝欄に、読みやすくておすすめの本という紹介があった。両親を殺されたみなし児のハリーのさまざまな冒険談とでも言ったらよいだろうか。魔法使いの世界の話なので、突飛な出来事が起こるところも話を面白くしている。魔法使いの子供であるハリーは、はじめのうち人間の叔父・叔母のところで育てられるのだが、彼らの実子であるダーズリーのようには可愛がられない。それが六歳になり、魔法使いの学校に寄宿してから次第に楽しい経験をするようになる。誕生日に贈り物をもらうとか、おやつが手に入るとか、子供としてとても楽しいと感じることを経験する。このことは、過去の叔父・叔母の家での辛い経験と対比されるので、その喜びがひとしおであり、私たちもハリーと一緒にそのような楽しい経験をする。
お小遣いをもらうことが出来なかったハリーは、ハリーの親が残したお金を手に入れる場面がある。グリンゴットと言う子鬼たちが管理する銀行でお金を受け取るのだが、その銀行は地下にある。レールの上を走る乗り物で地下に行くのだが、その乗り物はくねくねと曲がる地下の穴を次第にスピードを増して進んで行く。その場面は英語にもかかわらずリアルな体験を味わう。くねくね曲がって進む感じは"hurtling"で表されている。また、"gather"がだんだんスピードを増すという意味があるのも初めて知った。
最初のうちは分からない単語を引き引き読んでいたが、そのうち引き込まれて、ほとんど辞書を使わずに読むようになった。ところどころ何となく分からない感じがするのだが、全体の筋がつかめれば、わからない単語があっても気にならなくなる。意地の悪いマルフォイという同学年の子を懲らしめようとしたとき、ハリーはブルームスティッキ(魔法のホーキの杖)で空を軽々と飛ぶことが出来た。それまで辛い経験の多かったハリーが自由を手に入れた瞬間は感動的だ。このスティッキを使ってキディッチというスポーツの対抗試合が行われるのであるが、このスポーツはテレビゲームのキャノンボールみたいなものである。アメリカンフットボールをテレビゲームにしたようなものと思えばよいだろう。
このように子供向けで面白いので、子供向けの本としてはたいへんなベストセラーになっているということである。学校の規律を守らないで先生に叱られる場面や、悪役の先生にいじめられる場面などがよく出てくるが、叱られたとき落ち込んだ後に良いことがあって気分が高揚したり、またその逆があったりで、辛いことや楽しいことの繰り返しがよくある。あの寅さんの「男は辛いよ」はそのような心の浮き沈みのパターンをうまく利用しているのだった。このような幼いポッターの気持ちを思いやることが出来れば、現在の小・中学校での子供の心を理解してやれるのではないかと思うのであった。
ところで、話は「星の王子様」に戻るが、星の王子が住んでいた星は小さく、バオバブの大木が3本もあると住む場所がなくなるほどであるという。だから王子はバオバブの芽生えを見つけると、大きくなる前に、芽のうちに摘んでしまわなければならないのだ、という。雑草の駆除も芽のうちに摘む必要がある。
サン・テグジュペリがアメリカに住んで居て、自分の故郷がナチズムで席巻されているのをたいへん心配していたそうだ。星の王子が何10回と夕日を眺める場面があるが、このような彼の心境が分かると「星の王子様」もまた違った面が見えてくる。
わが国は、ガイドライン法案や盗聴法という戦争への道を再び歩もうとしているが、このような戦争への道も芽のうちに摘まなければならない、と思う。
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