ひとりごと −その5−
17歳の彷徨
連休中、17歳の若者による事件が連続した。どちらもまじめな将来のある若者である。緑区の中学校でおきた恐喝事件の続報もあるなか、一体今の若者はどうなっているのだろうかと悲しい思いをされたかたも少なくないであろう。かくゆう、私もその一人である。
子供を育てたことのある人なら、わが子がたどった道筋の危うさを思い起こし、心を痛めておられるにちがいない。こうした事件が必ずしも特異な環境で起きたものではないことも、私の痛みを増幅している。
連休の日、時間を溯って、自らの体験を思い起こすこととなった。
私は人を殺した夢を見たことがある。ちょうど16〜17歳頃である。心臓疾患で、未来に大きな影を突きつけられた高校生時代、残された時間の切迫感に焦燥し、自分の思うような結果を何一つ得られないときがあった。入信していた宗教団体の闇を見て、それを批判したとたん、それまで信頼していた人たちからいわれなき中傷にさらされたことも痛手だった。そのとき、人間の醜さと愚かさを知ることになった。もちろん、純粋に私の健康回復を祈ってくれた人々には心から感謝しているが・・・。 私にとって、17歳は、焦燥の中で、生きる意味とか、人類の目的とか、人間としてどうしたら前向きに生きることができるかを模索した時期である。
夢の中で「殺してしまった」人は、豊川の事件のように、無抵抗の老人なのだ。憤りの対象ではなく、無関係の人であった。ちょっと前に見た映画の殺人シーンと重なっていた。
私は、あまりのことに、その夜一睡もできなかった。つまらないことで怒りを押えることができず、感情の赴くままの凶行であった。心の闇の部分が、押さえ切れない力となって現れたのだ。私は恐ろしさと後悔から、体の震えが止まらなかった。しかし、これは、「夢」の中の出来事なのだ。私はこのことを心の奥深くに封印した。以後時々同じ夢の断片を見ることになったが、心理学上、こうしたことはあると聞いて、ほっとしている。しかし、私の心の闇の凶暴性がいつ表出するかと、今でも恐れている。
我が子の成長をみると、どうやら難関を突破したようだ。意見の相違で目をむいて食い下がったあの日の我が子を思い出せば、今では頼もしささえ感じる。片肺飛行の我が家にあって寂しさに耐えきれない彼は、事毎に教師や同級生とぶつかってきた。周囲の大人は我が家を好奇の目で見、彼をあらぬ中傷にさらしたのである。それが原因でいじめられたり、やりかえしたりする時の長さは、経験したものにしかわからないだろう。あるときは制服がぼろぼろになっていたこともあった。子細は問わなかったが、きっと辛い目にあったのであろう。
荒れ気味の彼を理解できない教師は批判的であった。学童保育や子供会での地域でのつながりが無かったら、今ごろは私もかの人々と同じ苦しみを背負っていたかもしれない。
そんな彼がはばたいたのは17歳であった。幾人かの信頼できる大人達に支えられ、よい教師にも恵まれて、前向きに生きることへの確信を得たようだ。マイノリティの友人の面倒をみていた彼が、その友人の頑張る姿に感動する様を見て、良い友に恵まれたと安堵する。
これからはもっと厳しい競争にさらされ、傷つくこともあるだろう。しかしそれ以上に、自己を見失わず、前向きに、彼は生きていけるだろう。
子供を育てる環境は破壊の限りを尽くされているといってよいのではないだろうか。
肝心の親は日本型官僚社会の歪の中で、正常な家族関係を構築できないようになった。非人道的な単身赴任やリストラ、際限無い残業の強要は家族に突き刺された刃である。
子供を守るべき最も小さい単である家族が疲弊しているのだ。
学校の先生はとみると、情熱あふれた若者は採用されず、志の薄いサラリーマン先生が跋扈していて、情熱をもっておられる先生も少数派となった。 先生にとっては、教育委員会から命令されたことを忠実に実行することが正義であり、志ある先生方の自主的な取り組みは悪として排除される。いわゆる「管理教育」が「管理された先生」の集団によって行われている。 その結果、管理しやすい「よい子」や反抗しない「おとなしい子」を装わなければならない子供たちは、まるで金太郎あめのようにみずからを歪めたのだ。
最後の砦と思しき警察を見れば、このところの不祥事隠しで露呈した通り、正義のかけらもない非人間的集団である。点数の多く取れそうな公安事件には熱心に対応するが、面倒な民事事件には非介入である。ストーカー殺人事件や5000万円恐喝事件の警察の対応は民事を言い訳としたサボタージュであり、市民への裏切り行為である。
ここにあげた学校の教師も、警察官も、やはり家族という単位の中核であり、それぞれ現代社会の困難性を背負っているのだから、この構造の根は深い。
このようななかでも、献身的に子供たちを支えている大人達がいる。先生にも本当に尊敬できる人々がいる。保育園や学童保育や、PTAなどに集う大人たちは、地域ぐるみで子供を守り育てる努力を今も続けている。現代社会の子育ては、かろうじてこのような善意の人々によって保たれているに過ぎないのだ。
日本社会は高度成長によって多くのものを失ってきた。不要と思われていたものが、実は大切であることを、このところの環境問題が教えてくれている。 物や金(大学に突きつけられている「効率」もそうしたカテゴリーの一員だ)が優先し、安らぎとか慈しみといったものを「無駄」として捨て続けている。行き着く先は、エゴイズムの権化と化した日本型官僚社会である。 その醜さは、厚生省の薬害エイズ、大蔵省の汚職、銀行による地上げと常軌を逸した投機による膨大な損失、原子力発電もんじゅのナトリウム漏れ事故隠し、JCOの臨界事故などによって、垣間見たではないか。
現代社会は、自己防衛的な組織の中にあって、異型を許さず、情熱を持ったものほど生きにくい。何と閉鎖的で陳腐な社会であろうか。このような社会しか知らない若者は極めて不幸である。
このような社会を生き抜かねばならない、かの17歳達の彷徨に、よい風は吹くのだろうか。
(理学部 河合利秀)
(理・河合利秀)
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