魔 言
−その25−
そうぞうりょく
「そうぞうりょくを養え」と聞けば、「創造力」が専ら思い描かれるかも知れない。それも、確かに必要なことでだが、ここで言いたいのは「想像力」の方だ。
17歳の犯罪が大問題だ。 歳という事にも関わりがあると思うが、最近の主婦殺しやバスジャックの 歳に共通しているのが、想像力の欠如だと思う。なにも17歳に限らないけれども。
「人を殺す経験が必要だった」と。この言いぐさ自体に、何とも言いようのない恐ろしさ・不遜さと幼稚さ・ばかばかしさ等々を持たされるが、その根底にあるものは、経験と想像力不足の子供っぽさ以外の何物でもないだろう。少し考えてみればいい。
考えて分からなければ、余り進められないが、自分の体にほんの少しでも、包丁でも、鎌でもいい、突きつけてみたらどうか。包丁で突き刺される痛みが分かるだろう。だいたい、兄弟もなく、一人大事に育てられ、きっと、親にぶん殴られたこともないのであろう。余所の子供をぶん殴るわけにも行かないし、今の遊び友達は、いわば仲良しクラブ。昔のような喧嘩相手ではない。兄弟が多ければ、きっと、半殺しぐらいのひどいことも有ったろう。兄弟の多い家では、家の中に、まともな形をしたものなどほとんどないくらいだった。
そういえば、最近、「半殺し」などという言葉もきかない。随分、物騒な言葉だが、子供の頃にはよく聞いたし、時には言われもした。決して殺しはしない。ひどい目に遭わせて、身をもって分からせるのだ。動物なども、子供はじゃれ合って、ほとんど殺し合いに近い喧嘩が始まることがあるが、決して殺してはしまわない。「半殺し」も想像力の賜物かも知れない。
教育学者の領分に属することだが、今、この「想像力」を養うことが非常に重要なことに思える。色々な経験をし、本を読み、人の話を聞くという中に、想像力は養われるだろう。テレビやコンピュータは不向きだ。
関係のないことかも知れないが、私は、翌日大切の要件で、どうしても何時に起きなければならないというとき、決まって、遅刻して失敗したり、大いに困った夢を見る。夢を見て起きると、まだ時間前で「ああ良かった」という経験をよくする。学生時代、旅行して、夜行列車で帰って来たことがよくあったが、そういう列車は大抵真夜中に名古屋を通る。寝過ごしたら大変。この時も、大抵寝過ごした夢を見て、5分ぐらい前に目を覚ました。我ながら、特技だと思っていた。今は、自動車の運転の時に、いつも衝突されたり、衝突した場面が思いを離れない。そうならないようにと思って運転している。
〔田〕
もえないごみ
名古屋市が、ゴミ非常事態宣言をしてからの、市民各位のゴミ問題に対する取り組みには心から敬意を表する。やれば出来ると言うことを実証したのであり、頼もしい限りである。新聞によれば、ゴミゼロ宣言をした会社もあるという。やれば出来るのである。リサイクル社会の出現・ムダのない世の中の出現を目指して、生活を改善して行かなくては成らない。人間の生き延びる道だ。
その中で、前から疑問に思っていたことを一つ。このほど、大学での知らせによれば、ゴミを20種類に分類しなければならないことになった。大変厄介なことだが、分ければ資源、混ぜればゴミ、ということになればやはり多少の面倒はともかくとして分けねばなるまい。これを「分別(ぶんべつ)」というのも面白い。初め、見慣れぬ頃は、ゴミにも、「分別(ふんべつ)」が有るのかと思った。
それはともかくとして、「もえないごみ」といのが曲者。燃えるゴミが、時には「可燃ゴミ」と書いてある。そのばあいは、一方は「不燃ゴミ」だ。これがややこしい。「燃えないゴミ」のなかには、プラスチックや、発泡スチロールの食品のトレイなどが入るという。しかし、これは、燃やせば燃える。でも、燃やせば有害ガスを出すという。燃えるけど「燃えないゴミ」なのだ。本当言えば、「燃やしてはいけないゴミ」なのだ。
その点、「可燃ゴミ」というのは正しい。「可」というのは、「可能」=「できる」という意味もあるが、元もとは「〜してもいい」ということだ。会議での投票で、「可」「否」投票というのがある。「いい」か「いけない」かということだ。「可」は「出来る」という可能の意味を表すと共に、してもいいかいけないか、ということをいう。「芝生に立ち入るべからず」というのは、「入ってはいけない」ということで、「入ろうと思えば入ることは出来るのだが、入ってはいけない」ということをいうものである。
「不燃ゴミ」「もえないゴミ」といわず「不可燃ゴミ」「燃やしてはいけないゴミ」というべきではないか。「燃やそうと思えば燃えるが、燃やしてはいけないゴミ」の意味だ。「燃えないゴミ」ではない。
とても難しいが、きちんと分けることにより、味噌もくそも一緒になっていては、何ともならぬ物が、資源として生かされるのである。本当に捨てなければならぬ物などほとんどない。
(田)
政治家の発言
政治家が国会で自分の信念したがって発言することは憲法が保障する権利である。
小渕総理大臣が不幸にも病で倒れた。無念であろうが、どうにもならぬ。この時の、各界の人々の反応には興味がある。さすがに、政治家は外交辞令というか、聞いていても巧いことをいうな、と思った。腹の内にどう思っているにせよ、とにかく巧いことを言う。ところが、公人であるから名前も言うが、公明党の神崎代表は、連立離脱問題でいざこざのあった自由党の小沢党首がいけないようなことを言った。おやっ、これはと思った。考えれば考えるほどおかしな発言で、私がどうこういうことではないが、こういう発言が許されるとすれば、政治家は主義主張に基づく発言もできなくなる。それが原因で首相がノイローゼにでもなったら、責任をとらせられかねない。憲法は、こういう政治上の信念に基づく発言をはっきり認めているのであるから、それをとやかく言う方が憲法違反である。
そう思っていたら、今度は、国会の代表質問で、自民党の野中幹事長が、民主党の鳩山代表の小渕首相の病気見舞いを白々しいと言った上で、鳩山氏の発言が小渕総理大臣の病気を引き起こした原因で有るかのごとく発言した。いかに、国会での発言は自由だとはいえ、これは人間性に関わる重大発言であって、卑劣ださえ言える。先の神崎代表の発言同様、憲法で保障されている政治上の主義主張の発表に対する重大な侵害だと思うけれどもどうなのであろうか。
そんな言葉咎めは止めようという声が、聞こえてくるように思うが、これは言葉咎めではない。事は、政治的自由に関わる問題である。
(田)
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