新フィールドノート
−その60−



ハナノキを求めて

名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 恵那市の市街地から車で北に向かい、木曽川を越える。さらに木曽川に沿って4キロほど西に進む。木曽川の眺めは、いつ見てもゆったりとしていて気持ちが良い。それから木曽川に別れを告げ、一気に700メートルまで上る。そこには飯地町という高原地帯が広がる。
 行政区分上は町となっているが飯地町は大部分が山林である。大根山という小高い丘の一画に50メートル四方ほどの湿地がある。そこにはハナノキが分布している。ハナノキの生態は湿地に分布するというくらいで、その生態はほとんど知られていない。たいていの保護されているハナノキは、周囲が改変されてしまっていて、天然の様子は読みとれない。この大根山湿地はまたとないハナノキの天然更新の研究のフィールドである。
 ハナノキの大木があるので、実生もあるだろうと探した。ところが見つかったのはウリカエデという普通のカエデで、ハナノキの実生はなかなか見つからなかった。ハナノキには雌雄性があり、雄株と雌株に分かれている。もし、雄株ばかりであればとうぜん種子を生産しないわけである。春にハナノキを観察すると雌花が見つかり、雌株があることが分かった。その後、ハナノキの実生も見つかるようになった。
 湿地の中のハナノキは雄株なので、種子は比較的離れた株から飛んでくるらしかった。かなりの数の実生が見つかったが、どれもこれも成長が悪く、大きくなれそうもない。湿地のへりに何本かハナノキの若木があるが、どうしてハナノキは湿地の縁だけで生き延びるのか不思議である。研究というものは謎が解けてしまうと当たり前になってもはや感動しない。この新しい疑問がわき、謎が生じたときが一番楽しい。いや、当たり前となった事実を論文にして公表して公に認められるようになることも喜びの一つではある。しかし、新たな謎に直面したときなにかわくわくするものを感じるのである。そして商売柄、その謎を何とか合理的に理解しようとする営みが科学というものではないだろうか。
 喜びと言えば、恵那の市街地のコンビニでおにぎりを仕入れ、水たまりや湿地の植物を眺めながらほおばるのもまた喜びの一つである。私は、これまで、夏は暑いので仕事をしないことにしていた。ところが、湿地は夏がかせぎどきなのである。多くの湿地の植物は夏に花を咲かせあるいは実をつける。湿地の植物は同定が難しいと決めつけていたが、夏に仕事をすれば、たいていの植物は名前がわかる、ということに気づいた。だから夏にも仕事をするようになった。だが、高原でも8月は暑い。
 今年(2000年)の9月3日に、大根山湿地の調査に出かけた。このときはさわやかで、名古屋とは別世界であった。シラタマホシクサやサギソウも花を咲かせていた。
 しかし、それから一週間ほどして、台風が接近し、低気圧にぶつかり、およそ百年ぶりの大雨を降らせるなんて、誰が予想しただろうか。そして、鳴海駅が浸水して名鉄が普通になり、私が駅で一夜を明かすことになろうなんて、私は夢にも思わなかった。ましてや、天白川が増水して、野並一帯で、天井まで水につかりチャトラ・パティという行きつけのネパール料理店が店じまいをせざるを得なくなるなんて、まったく信じられない出来事であった。


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