新フィールドノート
−その58−



クロタネソウは残った

名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 今日は日曜日。朝七時に起きる。通常、こんなに早く起きるのは一限目のある月曜日だけである。今日はサンコウチョウに会いに、海上の森にでかけるのだ。
 名大のシンポジオンに泊まっている、樋口広芳さんを迎えに行く。樋口さんは東大の農学部に所属していて、野鳥の専門家なのである。
 キビタキ、コゲラ、ヤブサメ、吉田川沿いの渓谷は野鳥の宝庫である。早速、サンコウチョウが泣いている。月日星ホイホイと泣くのだそうだ。夢にまで見たサンコウチョウの鳴き声をようやく聞くことができた。吉田川沿いには、双眼鏡を下げた人たちがあちこちにいる。あの美しい鳴き声のオオルリの声にも出会った。サンコウチョウと同様に亜熱帯からの渡り鳥であるサンショウクイの鳴き声も聞こえてきた。樋口さんもこんなに多くの鳥の声を聞くことが出来て素晴らしい、と言っていた。
 樋口さんを見送って、大学まで戻ったのがまだ午後の三時である。こんなに自由な時間があるのは、何年ぶりかである。いちばんやりたいことは草むしりである。今年はほんとうに忙しく、毎日昼食どきに生協に出かけるたびに、雑草が大きくなっていくのがわかる。とくに最近は気温が高く、ヤブガラシがシュートを地上に出すと、三日もたたずにみるみる大きく伸び出す。ついに、見るに見かねて、ある日、会議の合間にカマを持ち出し、刈りだした。十七歳の高校生と同じと思われてはいけないので、現場まではビニールの袋に入れて行った。
 この草むしりをはじめて三年目になる。さすがそれなりの効果が感じられる。しかし、ヒメジョォンはどうだ。一度、四月に駆除したはずが、相変わらずびっしり生えている。去年、種子をつけるまえに全部抜き取ったはずなのに、こんなに一面にはびこっている、と言うことは全部、周辺から種子で運ばれてきたに違いない。ということは今年、すべてを駆除したとしても、また来年も同じだけ生えてくる、ということだ。最近気づいたのだが、情報文化学部棟の中庭にヒメジョォンが一面にあの白い花を咲かせているではないか。なんと、うかつなことか。と言って、この中庭のヒメジョォンまで駆除する気にはならなかった。さらに気づいたことは新しく移った人間情報学研究科棟の五階の新しい部屋の窓から体育館が見える。何と、体育館の周辺には、やはりヒメジョォンが一面に開花しているではないか。
 ヒメジョォンは諦めよう。そこで、せめてヤブガラシだけでも絶滅させようと思う。ところがヤブガラシも一向に数が減らない。光合成を十分に行う前に地上部の茎を引き抜くのだから、地下茎に蓄えられている養分は減少してそのうち無くなるはずなのだが、あとからあとから芽が出てくる。光合成をしなくとも、地下茎には無限に養分が蓄えられているかのように思えてしまう。
 そのうち、止むに止まれず、やおらカンビールを取り出す。コンビニで仕入れてきたのである。この草むしりのあとの一杯がたまらないのである。今日は日曜日、いつもは通り道いっぱいの学生さんも姿を見かけない。すると「今日は、先生」と、きれいな日本語で挨拶が聞こえる。留学生の徐さんであった。彼女は、私より日本語が上手である。私などは、幼少の頃より、もぐもぐと口を濁らせる癖がついているので、多くの人は私の言うことを理解しない。ある時などバスで、隣りに座っていたうら若き女性が降りようとする。私がどかないと降りれないのであるが、私も次のバス停で降りるつもりでいたから、私も降りますよ、と言ったのだが、私の言うことがわからないのか、無理やり私を押しのけて出ようとする。私は三度も次降りますよ、と言ったのだが、そのうら若き女性は一向に私の言うことなど聞かず、無理やり降りようとするのであった。私は、さすがに愕然とした。私の日本語がなかなか日本人に通じないとはうすうす感じていたが、これほどとは思わなかった。
 それにしても、徐さんの日本語はきれいな発音である。徐さんは、私が何故、草むしりをしているか理由を説明しようとしているあいだに、はるか向こうにすでに行ってしまっていた。
 今日は日曜日だし、昼過ぎ早々に戻ってきたとは言え、海上の森でそれなりの調査をしてきたあとなのだから、昼間からたかがカンビールを空けたと言って文句も言われまい、と思いながら草むしりをつづけていると突然、筧先生が声をかけてきた。例の草むしりですね、という感じで。ということは、かけはし読んでるな、とピーンとくる。これがヤブガラシですよ、と説明しようとすると、ヤブガラシなんて知っていますよ、ときた。よく知っていますね、と言うと、私の生まれは葉山で、子供の頃父親がよく近くの野山に連れて行ってくれて、植物の名前も教えてもらったものですよ、と言う。私は、この言葉で、小津安二郎の映画を思い出した。小津安二郎は、親子の関係をこれでもかこれでもかと描いた人だ。
 筧先生はたしか音響生理学の分野の専門ではなかったかと思う。一度、お話を伺ったことがある。人間の耳が、どのように音を聞き分けるかという話であったように記憶している。私はロ-マン・ヤーコブソンの「音と意味の六章」の愛読者である。ポーの "The Raven" は私の大好きな作品の一つで、このポーの詩を例に、ヤーコブソンは音と意味の神秘的な関係を解きあかすのである。このことについては、また機会があれば触れてみたい。
 ひとしきり筧さんと話をして彼が去って行った後、私はまたビールをあおり、草をむしった。このように、草むしりは人とのコミュニケーションにも役だっている、などと勝手なことを考える。そう言えば、おととい、私が会議の合間をぬって、必死に草むしりをしていたときのことである。甲斐さんが声をかけてきた。何をしているんです? 草むしりですよ、と言うと、懐かしそうに、私も筑波にいた頃には、宿舎の草むしりをしましたよ、と言うのである。私は、嬉しくなってしまった。私も、宿舎の草むしりに励んだ経験があるからである。
 甲斐先生は、筑波大学から移ってこられた新進気鋭の気象学者である。日本ではシバは雑草に勝てませんね、などと私のお株を奪うような意見を述べる。つられて、私も、助手の時代、仕事と称して、宿舎の庭の草むしりに励んでいた経験を話してしまう。甲斐さんは、さきほどの徐さんの指導教官である。さまざまな気象に関する研究をしておられるが、とくに最近は、黄砂の研究も手がけており、徐さんとともに中国大陸で、黄砂の発生とその運搬に関する研究を進めようとしている。
 ありあまるほどあった時間ももはや残り少なくなった。この間に、二度目の草むしりをしてきた。
 会計雇いの草刈りは、珍しい稀少な植物もおかまいなしに刈ってしまう。そのせいで、あの可憐な薄紫色の花を咲かせるクロタネソウは絶滅したかにみえた。しかしながら、小さな芽生が一つ生き残り、花を咲かせていた。果たして、来年また芽生えるだろうか。
 私のように草むしりなどをしている人間は、独立行政法人化が進行した暁には、真っ先にクビになるのではなかろうか。
 この原稿を書き終える今の時点では、すでに窓の外は暗い。


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