新フィールドノート
−その35−



海上の森
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 愛知万博の会場予定地として知られている海上の森については、これまでにも何度か話題としてきた。今回、ギフチョウの調査を行った経験をお話しよう。
 南山大学の江田(こうだ)さんという蝶の専門家を中心に、海上の森でギフチョウの調査をすることになった。ギフチョウは、4月の初旬に羽化してきて、交尾をし、そして産卵活動に入る。羽化したギフチョウは、蝶道という尾根道を通って、交尾相手を探す。近くに、ツツジの花が咲いていれば吸密もする。
 ギフチョウの飛翔活動の調査は、一人では出来ない。手分けして、あちこちの尾根で見張りをする。私もこの調査に参加したが、初めはギフチョウらしきものが飛んできても、素早くてなかなか目に止まらない。慣れないと、ギフチョウとアゲハチョウ類との区別がつかない。アゲハチョウ類とギフチョウの図鑑からコピーしたきれいな図が各自与えられている。各地点で、少なくとも2人以上で見張るのだが、そのとき私の相棒も初心者に近かった。私が一番最初にギフチョウと判断したものは、2度目に本物を見たときアゲハチョウであったことが分かった。分かってくると、飛びかたも違うことに気づく。うまく説明できないが、飛びかたが明らかに違うのである。それはそうである。ギフチョウとアゲハチョウ類はお互いに違いを認識している、いや少なくともお互いに仲間ではないと認め合っているはずだ。でなければ、同じ仲間どおし、交尾の相手と見分けることもあやしくなるはずだ。少なくとも、ギフチョウはアゲハチョウ科で、もともとは共通の祖先から分かれてきたのだから。
 私は、朝早いのが苦手だ。だから、いつも、午後の部の交代要員だ。それでも、2度目に参加したときは、ギフチョウを網で捕らえた。これはマーキングをするためで、マジックで素早く記しをつけ、また放すのだ。残念ながら、今年は、1、2週間早く暖かくなったため、ギフチョウは産卵活動に入る気配が認められ、その後の調査は打ち切られた。
 それからが、私の出番だ。ギフチョウはカンアオイ類に卵を生む。海上の森では、ほとんどがスズカカンアオイであるるこのスズカカンアオイの分布を調査し、スズカカンアオイの分布とギフチョウが産卵した葉の分布とを比較するのが次のねらいである。ギフチョウの採集家は、経験的にそのことをよく知っている。けしからんことに、万博で将来消滅するギフチョウを採集したいと、遠方からやってくる。蝶の絶滅を救うのではなく、絶滅寸前の蝶にむらがりくるのである。そして彼らも蝶の絶滅のお手伝いをするのだ。  私は、蝶の採集くらい大目に見たいと考えていた。しかし、1年に1度の羽化しかしないギフチョウは、さまざまな影響に敏感なようだ。一昨年に地元の団体が調べたときには、数千のオーダーで卵塊が見つかったのに、今年の調査では、百にも満たなかった。ギフチョウの幼虫が親となって生き残るのは、ほんの数パーセントというデータもあるくらいだから、来年飛来するギフチョウの数はさらに減少するかも知れない。そうなると、さらに産卵数が減少して、もはや回復の見込みがなくなる。たいていは近隣の地域からも飛来して補充されるのだが、周辺地域でも、どうも減少傾向にあるようだ。
 愛知県は、スズカカンアオイを移植して、ギフチョウを保全すると言っているが、そんな単純な問題ではない。今や、海上の森全体をそのままにしても、ギフチョウの生存が維持できるのかどうかという瀬戸際のようである。

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