新フィールドノート
−その33−
佐久島
名古屋大学情報文化学部 広木詔三
3月16日から18日にかけて、情報文化学部の学生のための「環境システム論」野外実習を行ってきた。実習を行った佐久島は、三河一色から船でおよそ30分のところだ。2泊3日の実習である。1日目は、西川さんが潮間帯の生物群集について、2日目は氏原さんが地層の成り立ちと化石の発掘について、そして3日目に私が佐久島の森林について、それぞれ実習を行った。我々の講座の特色は、生物学的な側面と、地球科学的な側面を総合的に学習できることである。往々にして、生物学と地球科学は別個に研究され、教えられている場合が多い。だが、かのダーウィンは、生物学と地球科学を両方ものにしたことによって、あのような生物の進化に関する偉大な理論を打ち立てたのではないか。
ところで、私の担当した実習の内容は次のようなものである。愛知県の平野部や三河湾の島々では、人間の手が加わらなければ、本来はシイ・カシの常緑広葉樹林でおおわれるはずである。ところが、佐久島のように比較的小さな島で、全体に標高が低いため、ほとんど人の手で森林は伐採されてしまう。伐採されても、樹木は、切り株から再生するが、これは落葉広葉樹の方が再生力が強いので、伐採が度重なると、常緑広葉樹林は落葉広葉樹林へと変わってしまう。つまり、原生林は2次林と化してしまう。いわゆる雑木林だ。
一昨年、最初に行ったときは、まだ、様子が全然つかめず、シイやカシの存在も危ぶまれた。西川さんや、氏原さんが学生相手に実習をしている間に、私は、必死になって、常緑広葉樹の森林を探し回った。幸いなことに、東の港に近い八剣神社の一画にシイ林が残存していた。そうでなければ、このような楽しい実習から私ははずされ、私は2度とこの実習に参画することは出来なかったはずだ。佐久島のシイはスダジイで、海岸部や島ではスダジイが分布するのが通例である。これにタブノキが混じる。シイの方が耐陰性があり、タブノキよりも実生が森林の内部で生き残りやすい。したがって、安定した状態が続けば、やがては高校の教科書どおりに遷移が進行し、スダジイがタブノキを駆逐してしまうはずだ。タブノキはどうなるかというと、海岸部に押しやられるか、あるいは台風などで、木が倒れたあとの空隙に生き残って生存をはかる。海岸部では、タブノキばかりでなく、ウバメガシやトベラといった低木が生存の場を確保している。海岸部は風が強く、ストレスが強くかかるため、高木であるスダジイやタブノキは生存が困難である。ウバメガシやトベラはスダジイやタブノキのような競争力の強い樹木には打ち勝ちがたいが、ストレスには強く、耐性がある。私は、このような特性を称して、逆境に強いと呼んでいる。
ウバメガシはナラの仲間で、どんぐりをつける。どんぐりをつけるナラの仲間は、北米大陸でもやや乾燥した地域で繁栄して森林を形成している。この大きなどんぐりは、ナラの仲間がやや乾燥した地域で、生存率を上げる上で貢献しているのだ。シイやブナのように競争力に強い種は、それほど果実を大きくする必要がない。本州にはスダジイとツブラジイという2種類のシイが存在するが、スダジイの果実の方がツブラジイのそれよりも大きい。スダジイはツブラジイよりも海岸に近い地域に分布していて、果実も大きめである。このことに関する論文が、苦労を重ねた上にようやくアクセプトされて、近々、論文になるはずである。
さて、佐久島に話をもどそう。佐久島の多くの区域では、丘陵部を除いて、畑やススキの草むらに変わっている。そのススキの草むらのところどころにタブノキの若木が点在する。このことは三宅島と原理的には共通している。スダジイよりもタブノキの方が、侵入が早い。タブノキの種子は鳥が運ぶからだ。八剣神社の一画では、スダジイ林がわずかにのこっており、その林の中には、ヤブツバキやカクレミノといった森林の亜高木層を構成する樹木が見られた。林床には、マンリョウ、キヅタ、テイカカズラ、ヤブコウジなどといった極相の構成種も認められた。実習では、一定面積のコドラ−ト(方形ワク)を取り、そこに出現した種を記録したり、樹木の大きさを調べたりする。そして、一番の目玉は、スダジイとタブノキの実生の数を調べて、森林の今後の発達の動向を探るのだ。予想どおり、タブノキの実生の数はわずかで、スダジイの実生はきわめて多い。暗い森林ではタブノキは生存が困難である。したがって、このことから、人間の手が加わらなければ、スダジイの勢力が最も大きくなり、スダジイの森林が島全体を覆うはずであり、現在の姿は、人間の手による森林の伐採によって形作られたものに他ならない、と結論づけることができる。
今年の実習は、風は冷たかったものの、3日間とも晴れが続き、学生ともどもたいへん楽しく実習を行った。島へは、小さな船で行き来するのだが、時間も短いわりに、これまたちょっとした旅情が味わえる。今回、カメラを携帯しなかったのはたいへん悔やまれた。しかし、実際の感覚は、写真では写し取れない。さあ、実習も終わり、義務から解放され、缶ビールを手に入れ、船の甲板に出て、もやで霞んだ空と海、後尾ではじける白いしぶき、船の通った波の跡のうねり、エンジンのやかましい音、これでまた1つ年を取るといったような一抹の感傷、などなど、などなど。写真では味わうことのできない感じを私の言葉で感じていただけただろうか。小さな船で、学生たちも乗っている。しかし、見つめるのは、船から見える空と海、それに自己の内面。写真では絶対に味わえない。
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