新フィールドノート
−その130−



三人の生理学者との出会い
 広木詔三


一月十五日・火曜日
 一生の最後となるかけはしの原稿を書き始める。大まかな構想を練って終わる。

二月十七日・日曜日
 明日十八日はかけはしの原稿締め切りである。まだ最初の構想のままだ。締め切りを二十一日まで延ばしてもらう。
 十九日が試験とレポートの採点の締め切りなのである。この間に、英文の校閲原稿が戻ってきたりする。二千二年に名古屋大学出版会から『里山の生態学』を出した頃のように忙しい。あの頃のかけはしを手に取ってみると、「憂鬱」というタイトルがあった。その頃は多忙で過労なため心臓発作をおこしたのである。何となくその頃の状況と似ている。

一月二十五日・金曜日
 神宮前から名鉄電車に乗る。去年の四月から名古屋駅に近い笹島にある名古屋キャンパスに通っているが、金曜日は豊橋校舎勤務である。今日は最後の試験の日だ。
 いつもの展望席を予約する。先頭の特別車は全面窓になっていて、運転席が一階にあり座席は二階にある。だから眺めがいい。だが、今はまだ冬で、景色はなんとなく灰色だ。厚い雲に覆われてどんよりしている。ドストエフスキーの小説に出てくるペテルブルクの空のようだ。
 新年のことを思い出す。例年、年末は憂鬱になる。元旦は妻の誕生日である。幸いまだ生き延びている。元旦には届いた年賀状を見る気になれない。今年は年賀状の返事を出したのが何と七日であった。年賀状につい憂鬱という言葉を書いてしまった。

 一九七四年の八月に名古屋大学の教養部に着任した。その数ヶ月前の面接のときに、採用されたらどんな研究をするつもりかと聞かれて驚いた記憶がある。助手というのはなにをするのか知らなかったのだ。だが、とっさに野外実験をします、と答えたことをはっきり覚えている。野外実験は条件を一定にするのが困難で失敗したものが多い。
 今、愛知県の小原村の花崗岩地帯で二種類の堅果(どんぐり)を播いて痩せ地での生き残りを比較した野外実験の結果を論文にまとめている。予想どおり、痩せ地に多いフモトミズナラはほとんどが生き残ったが、アベマキはほとんど全滅した。この研究は二十七年もかかった。アベマキはまだ一個体残っていたが、イノシシの跡があるので、継続を打ち切った。
 当時、教養部は制度的に研究機関として認められていなかったが、生物学教室では、若い助手のうちに研究に専念して業績を挙げるようにとの配慮があった。だが、研究というものをよく理解していなかった私は研究テーマが見つからなかった。大学院の時代には、磐梯山の泥流地帯で植生遷移の研究を行っていたが、問題意識が希薄だった。当時、生物学は人気がなく、ワトソンとクリックによるDNAの構造が解明され、分子生物学がはやり出したころである。先輩も同僚もいない研究室というのは問題である。
 当時、まだ講師に成りたての松原照男さんは微生物生理学の分野で世界の競争相手を出し抜いていた。競争の激しい分野なのでそろそろ見切りをつけたのであろう。私とどんぐりの発芽の比較研究を始めた。すべて松原さんのアイデアである。彼の洞察力と集中力は恐るべきものだ。微生物学の先駆者のパストゥールに似ている感じがした。私は松原さんのたんなる助手にすぎないという気がしたものである。当時の国立大学は研究のための旅費は支給されなかったので、シイやカシやナラの類が多く植えられている名古屋大学のキャンパスは居ながらにしてどんぐりが拾える良いフィールドであった。
 その後私は、愛知大学に勤務していた市野和夫さんと手を組んで、シイの雑種の問題や三宅島の火山植生の研究に重点を移した。このことは松原さんの怒りを招いてしまった。
 市野さんは名古屋大学理学部の生物学科で電気生理学を専攻した人であるが、山歩きも仙人のようで、博学で植物にも詳しかった。スダジイとツブラジイが別種で、それらの果実の中間形は雑種であると一応の結論を得たことと、三宅島の植生遷移でパイオニアのオオバヤシャブシと後続種のタブノキとスダジイの侵入順序の関係を明らかにすることが出来た。
 名古屋大学の教養部が解体され、情報文化学部や人間情報学研究科が出来た頃に、手塚修文さんと同じ講座で一緒になった。
 手塚さんは研究が生活そのもので、実験が好きでいつも実験室に来ては学生を相手に研究や世間話をしていた。独創的で、さまざまな最先端の研究テーマに取り組んでいた。松原さんよりも年上なので、私は手塚先生と呼んでいた。彼は教育者としてもたいへん優れていた。手塚先生は生態学にも明るかったが、私の学生・院生に生態学の分野の研究にも生理学の手法を押し付ける難点があった。
 私はこれら三人の生理学者と出会い、多くのことを学んだ。生理学という学問だけではなく広い世界を知ることができた。生態学の分野では一匹狼的に研究を行ってきたが。
 共同研究という面で、ジャック・モノーとフランソワ・ジャコブの二人の関係はたいへん興味深い。彼らはオペロン説という遺伝子発現の一つのメカニズムを発見した功績で同時にノーベル賞を受賞した。ジャコブはみすず書房から『可能世界と現実世界』と訳されている生き物の進化に関する洞察力に富んだ有名な啓蒙書を著している。名古屋大学の中央図書館で、やはりみすず書房から訳出されているジャコブの『内なる肖像 : 一生物学者のオデュッセイア』を手にしたときは感慨深いものを感じた。
 ジャコブは医学の博士号は手にしたものの、生物学の基礎研究がしたくて、基礎的な知識がないにもかかわらず、パストゥール研究所のモノーの研究室をおとずれて研究仲間に入れてもらえたのだった。最初はモノーが偉大すぎて、自分の無能さを思い知らされるのだが、ついには対等に議論が出来るようになる。緻密な思考と実験の大家であったモノーもジャコブとの議論の日々が無かったらノーベル賞を受賞したかどうか。
 モノーの本に『偶然と必然』というのがある。遺伝子とタンパク質の領域の知識をもとに偶然と必然の関係を論じた優れた本であるが、最終的には生命と生き物の存在を偶然に帰してしまったため世界中に物議を醸したことで有名である。
 この本が出たときに、松原さんに『偶然と必然』の話をしたところ、君には理解するのは無理だよ、と言われた。それも無理はない。それから後のことであるから。ワトソンの遺伝学の基礎を日本語訳テキストで学んだのは。
 私は生化学の授業を受けたこが無いと錯覚していたが、思い出したのである。東北大学の教養部時代に五百人規模の授業があったことを。出席するたびにシールを貼った記憶がある。しかし、授業の内容はまったく覚えていない。
 名古屋大学で講師になって最初の授業のときであった。当時一番大きい教室で受講者が三百人もいた。足がぶるぶる震えた。医学部の一人の学生が授業内容がまったく理解できなかったと言って試験のときに答案を白紙で出したことがあった。

 豊橋からの帰りの名鉄電車に乗ると、展望席は後ろ向きで、電柱やオレンジの街灯が次々と目の前から遠ざかり、瞬時に過去の暗闇へと消えて行く。


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