新フィールドノート
−その10−



尾     瀬
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 私が大学に入学したのは1964年です。この年は東京オリンピックがありました。まだ、テレビが普及して間もないころで、仙台市のはずれの下宿屋でテレビでオリンピックを見た覚えがあります。私は理学部に入学しましたが、学科の専攻を選ぶのは2学年の終わりで、それまでの成績によって振り分けられるのです。その頃は、日本経済の高度経済成長の始まりで、物理や化学科は就職率が良いので人気があり、私の成績では行けませんでした。数学と生物は、希望者が少なく、第一志望で行けるということでした。それで生物学科を選びました。
 さらに、三年の終わりに、所属の講座を決める時期になりました。私は、誰も行かない講座が一つあったので、何をやるところだかよく分からなかったのですが、生態学の講座を選びました。先輩もほとんどおらず、昔ふうの教育でほとんど何も教えてはくれませんでした。
 ただ、生態学の講座ですから、野外調査の機会が多く、先生の調査にしばしばお供しました。私の先生は、子供がなく、定年近くなっていたこともあったのでしょう、助手の人たちには、厳しかったのですが、私には厳しくありませんでした。助手が大きな荷物を背負いながら、よく私に不平不満をこぼしたものです。
 あちこちの野外調査についてゆき、よく宿屋で食事を共にしました。写真は、尾瀬の調査について行った時のものです。あの有名な「尾瀬が原」は、延長が10km以上もある高層湿原です。高層湿原というのは、気温が低いので、バクテリアの活動が弱く、死んだ植物の遺体が分解せずどんどん堆積して、それが雨水を貯めて湿地になったものです。あまり大勢の人が来るので、踏み跡が固められて、湿原が干上がって退行してしまうのです。その復元が調査の目的でした。私は、このような調査の機会にいろいろな事を体験的に学んだと言えるでしょう。
 当時は、ほとんど流行らなかった生態学が、私が大学院を終了する頃になって、自然保護の必要性が認識され、そのような背景のもとに、私は名古屋大学に勤めるようになったというわけです。


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