魔 言
−その20−
不作為の罪
「しやせまし、せずやあらましと思ふことはおほやうはせぬよきなり」というのは徒然草に見える多くの名文句の内の一つだ。大抵は確かにそうだ。定められたことをしない、何か起こるまで放っておくというのは自ずから別のことだろう。
放射性物質の加工工場での臨界事故による放射線漏れ、放射線被曝事故があって以来、この工場の実態が徐々に明らかにされてきている(臨界事故といっているが、ありていにいえば核分裂核爆発そのものだ)。定められた作業手順を守っていなかった、作業手順を守らなかった、ステンレス製のバケツを使っていたが、これは認可は受けていなかった(こんな言い方をされると、「ステンレス製」でないバケツは認可を受けていたように思われるが、どだい、こんな所で土砂を運ぶみたいにバケツが使われているということが違和感を持たせる)、等々、原子力なんとか法に違反する事実が次々に出てくる。しかも、10年もやっていたというではないか。その間、監督の立場にある科学技術庁は何も検査も監督もしなかったのだろうか。もし、そうなら一体監督官庁とは何なのか。今回慌てて同種の事業所の検査をするという、しないよりいいが、本当に今まではどうしていたのだ。
そういう責任は一体誰がとるのか。お役所というところは、責任者が次から次へ定期的に変わってしまい、過去の責任を追及しにくくなっている。責任をうやむやにするための異動なのだろうかと疑いたくなる。尤も、同じ部署に同じ人が長らく着いていて、それで業者との癒着が起こったりするから、どのみち、一人一人の仕事に対する責任感、モラルの問題に帰するのであろう。
それはそうと、事故が起こるまで、放置していた責任は一体どこにあるのか、一体どうやって責任がとれるのだろうか。知事が、国の役所は何もしてくれぬ、無くてもいいと怒っていたのも、無理からぬ事だ。
臨 界
茨城県東海村のウラン燃料加工工場での事故は、恐ろしいことだった。半径10キロメートルの範囲の人々が一日外出禁止になった。禁止とは言わないが同じ事だ。350メートルの範囲の人々はまだ収容所に入れられているようなものだ。
ウランが溜まって臨界に至った事故という。つまり、核爆発が起こったのだ。その時の様子は、十分に分からないし、どんな所で、どんなことをやっていたのかイメージは湧かないが、その報道で見て、放射線を浴びて病院で治療を受けている人々は、そこでTシャツ姿だったという。おまけに、バケツでそのウラン燃料の原料を沈殿槽なるものに入れたという。総理大臣もあまりのずさんさにびっくり、と書いてあった。本当に、セメントをこねて運んでいる図だ。土管を作るのに粘土をこねているような様子が思い浮かべられる。
起こってはならない事故といい、あり得ぬ事故といっているが、現に起こったのだ。臨界臨界といっているのも何となくウサン臭い。ありていに言えば、核爆発が起こったのだ。よくあれだけで収まったものと、逆に安堵している人もいよう。私はそう思う。
話は変わるが、「臨界」ということで考えることがある。なにも核物質に限らず、人間でも動物でも何でもかでも、有る量を超えると質的変化が起こるということである。少しなら何でもないものが、一定量を超えると思いも寄らぬ事が起こる。イナゴでも少しの内は捕まえて食べてもいい。多くなったらことだ。逆に食べられる。お金でもそうだ、最近の銀行に対する公的資金=税金の注入、長銀には4兆円を超えるという。中部国際空港の建設費の総額が、7680億円というから、その5倍強になる。これを外国の銀行に売却するというのだから、一体、注入した国民の税金はどうなるのだろう。こんな多額になると訳が分からなくなってしまう。これも臨界を越えたのだろう。この場合は、理解の限界を超えている。一両盗めば泥棒、一万両ならば英雄なのだ。おかしな話だ。これも臨界か。
また、話は変わるが、研究と言うことに関しても、種々の知見を得てそれは一つの脳中に貯えられてくる。そうすると、それが臨界に達して反応を起こす。それが、研究の成果ではなかろうか。そう思ってみると、多くの研究は、臨界以前のような煮え切らない、吹けば飛ぶような自信のない、それでいて奇妙に虚勢を張ったようなものに見えて仕方がない。自分で納得のいくようになるまでには、臨界に達する種々の知見の蓄積が必要である。
砂上の楼閣
こう言えば、はかないものだ。根無し草だ。吹けば飛ぶようなものだ。地震でもあればひとたまりもない。そんなものをいうイメージだ。世の中には沢山の砂上の楼閣がある。世界各地で大地震があって、実際に砂上の楼閣が実証されている。地震さえなければ、立派なものだった。地震があったばかりに砂上の楼閣だったことがばれてしまった。芝居の書き割り、映画のセット、式場の飾り付け、全部砂上の楼閣。それでも、人々は楽しんでいる。これを愚かというのか。
色々の研究も考えてみれば、大抵は砂上の楼閣だ。もし、これこれしかじかの仮説が成り立てば、かくかくしかじかのことが言える、というのは正に砂上の楼閣そのものである。もし…が成り立たなければ、結論はもともとまぼろしだ。
法華経に、化城諭品という巻がある。人々を悟りの宝所に導こうとする、しかし、道は険しい、人々は途中で疲れ、その宝所に行くのを諦めかける。そのとき、導師は化城を化作する。人々はそこで存分に疲れをいやし楽しんで、究極の目的地に至る英気を養う。人々が、その元気を回復したと見て、導師は化城を消す。人々は元気百倍して宝所に向かうという。いわば、幻によった元気づけられるのだ。これをどういったらいいのか。
学問上の仮説もこの化城に等しい。
砂上の楼閣も捨てたものではない。
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