魔   言
−その16−



寺子屋方式

   
 友人が言った。お前は何も学生を指導しないな、何も知らんなぁ、それで、学生がよく来るな、と。  お酒を飲みながらの話だから、多少割り引いて考えていただきたいが、本質は突いている。私の知っていることなど多寡が知れている。いくつかの大学の卒業生は判で押したような論文ばかり書く。指導教授の下請けのような論文だ。
ちょっとましなものは、指導教授と連名。恐らく、そういうところでは、指導教授は自信を持って自分の研究課題を指導生にも研究させているのであろう。世にそういう人を指導力のある教授というのであろう。  それから見れば、正に友人の言うとおり。そういう意味での指導力は発揮したくない。もちろん、知っていることに限界はあるが、学生よりはものを知っている。基本的な、知っていなければならぬ事は当然ながら教える。しかし、基本的に大学では、学生は一人前の大人として自分自身の研究テーマを持つべきである。もっとも、その建前が通じにくくなっていることも事実である。学部段階ではほとんど期待できなくなっている。しかし、なおかつ私はこの建前にこだわる。
 大学院ではこれは名実ともにこうでなければならない。私は一貫して学生の自発的な自主性に任せ、好きなようにさせています。それを件の友人は揶揄気味に言うのである。私はこれを言葉はよくないが、「放し飼い」とも「放牧」ともいう。一時期、日本を代表するような大学でも教師が取り上げたテキスト内の卒論しかなかったことがあったそうだ。幸い我々の所にそれはない。放牧の効果だ。それに「寺子屋方式」を組み合わせる。授業は、大学院生から学部生全部一緒にし、演習などでは、学部生は院生の手ほどきを受ける。院生は教えることによってより理解を深める。今のTAの先取りだ。TAは寺子屋の兄弟子みたいなもの、師範代だ。
 だから、TA諸君にいう。こんな仕事は当たり前で、昔は全部ただだった。今は金を貰いおまけに、経歴にまでなるのだ。有り難いことだ、と。
 話がそれたが、学生が自分で自分のことを自主的に決めることが出来、自分で責任を持つことが、今、肝要だ。寺子屋方式は優れた教育方式だ。能率ばかりを追究してはいけない。もっとも、考えようによっては、極めて効率的な方法かも知れない。
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教職員委員会 魔 言
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