私の百名山−その5−



大菩薩嶺(2,056m)
文学部 中條 保


はじめに
 学生時代に見た映画でかすかに記憶がある。それは中里芥山の小説が映画化され市川雷蔵演ずる怪奇な武士「机竜之介」が主人公で眼病のために信州の白骨温泉で湯治のために滞在するのだが、確かドラマの冒頭で主人公はこの峠で人を切るのである。前後の記憶はないが以来、大菩薩峠という名の印象は残った。

大菩薩峠
だが、何処にあるのか、行ってみようと思うまではその入り口すら知らなかった。ここは、武州と甲州を隔てる標高1897mの稜線上にあって、この峠に至る東側は、丹波大菩薩路としての稜線歩きであり、奥多摩から丹波の里を経由して一日の山旅なのである。西は緩やかに塩山市内に至る。東西を行き交う旅人の山越えの難路の地であり、自然環境は厳しく峠越えには、寂しさや厳しさを伴って旅人を悩ませたことは訪れてみて十分に分かる。冬道は無理にしても、雨や寒さの季節は辛いものである。今はレクレーションの一日コースである。

交通機関
 中央東線の塩山駅から山梨貸切自動車のバスに揺られて20分ほどで終点の登山口に到着する。大菩薩嶺へは峠から夏なら1時間ほど。気候の良い時期なら南北いづれからでも縦走コースをとると良い。同じコースをピストンするのも安全策だが、少し山歩きになれたら登り、下りに別のコースを歩きたい。積雪期以外なら危険箇所はなく安全な山だ。富士山を眺望しながら、足下に塩山の市街地を見下ろしつつ、樹林に囲まれた静かな山旅が楽しめる。桃李の季節に訪づれるなら百花繚乱も楽しめる。

東京から
 一昨年の7月上旬に一度企画をしたのだが、岳父を亡くしたため計画が棚上げになっていた。チャンスは昨年の早春に訪れた。名古屋では暖かい日が続いたが、関東平野は1月から3月にかけて3回にわたる大雪で交通が大混乱した。そんな3月中旬、東京から中央東線で塩山に向かった。荻窪あたりで架線にビニールが絡まり快速列車は運行中止になり、普通列車のまま高尾まで行き、7分の乗り換えで塩山に向かう。大菩薩登山口への最終バスに間に合うかと気をもみながらも、車窓から積雪状況を観察すると奥多摩、奥秩父の山々の稜線が白く輝いている。大菩薩の1900m級の南稜は雪で白く輝いている。塩山には16時23分に到着する。駅前は東京へ帰る登山客が10人あまりいた。積雪状況が知りたかったが、丸川峠のことは知らない人が多い。南斜面が夕陽に光って怖そうだ。17分待ってバスは山麓の民宿へ向かう。

民宿に泊まる
 バスは市街地を西へ向かい市役所の交差点で北に右折する。梅林の中を緩やかに河川に沿って登って行く。富士山が美しい。バス停終点の100m先が民宿だ。神奈川からの49才の女性公務員一人が同宿した。宿では前夜に2食分のおむすびを準備してもらう。食事は多くて食べきれないほど出たが明日のスタミナ作りには十分といったところ。朝は早立ちなので入浴後、すぐに就寝する。1泊3食8600円也。 民宿「松葉荘」(0553)33−9391

丸川峠小屋へ
夜半目覚めると18夜の月が西の山の端にかかっていて明るい。犬の鳴き声がうるさく、しばらく眠れずに困る。5時30分を過ぎるともう明かるかった。靴を履いて静かに玄関を出る。風もなく静かで、張りつめた冷たい空気も歩き出すと間もなく暖かくなる。晴天の林道を緩やかに登ってゆくと南アルプスの白根三山が美しい。白樺林の別荘地を巻くように20分も歩くと丸川峠への分岐に出る。少し不安だったが、大菩薩峠への林道を右に分けて左折し、予定どおり北から南に縦走することにする。小河川に沿って少しづつ雪が現れる。丸川峠への南面の小尾根に取り付いて小休止する。すっかり汗をかくもこれからが峠への急登が始まる。宿から2時間で雪に覆われた丸川峠小屋に到着する。小屋には同年代とおぼしき主人あり。周辺は2mほどの積雪で富士山が正面に見える。大菩薩嶺へは「雪が深いので無理をするな」と忠告される。止まると寒いので早々に出発することにする。

大菩薩嶺へ
天気も良いので「行けるところまで行ってみよう」。主人の忠告を胸に大菩薩嶺へ向かう。小屋のすぐ裏手のカラマツ林へ登るともうルートらしき踏み跡も途絶えた。腰まで潜る雪としばらくは悪戦苦闘する。「忠告は本当だ」進路を阻む雪道に「行こうか。戻ろうか」しばらくは押し問答する。「もう一泊、民宿に泊まってもいいや、とにかく大菩薩嶺までは行きたい。行こう」。そう決断して強行することにした。ルートは大菩薩嶺の北主稜線で少し東側山腹に平行に付いていることを地図で確認し、極力、主稜線上を歩くことにする。しかし、ブッシュもあるので容易く主稜線を歩かせてはくれない。勢いアルバイトが大きく、緊張感も加わり汗が流れる。9時から10分休憩をとりパンとお茶で一息入れる。「赤テープ少なし、困難なり。富士山を撮る」(記録から)。10時15分一旦東へ行きすぎて、西に戻るようにシラビソの林を緩やかに登ると山頂に達した。シラビソやダケカンバに囲まれた中に三角点があった。雪に覆われ、やっと顔を出している。「やった。山頂だ」誰一人いない山頂で心で叫んでいた。その三角点の標注に腰掛けて朝食にする。昨夜、宿で作ってくれたおむすびは、冷えていたがそれでもこんぶや梅干し、たくわんが美味しい。警戒心の少ない黒と白の小さなガラが指に止まって御飯を食べる。面白いので何度も繰り返してやってみた。純白の世界でのただ二つの命の交流だ。

大菩薩峠へ
山頂から南へ緩やかに30分ほど下ると樹海を抜け、塩山の駅から見えた雪原の稜線に出る。富士山が正面に大きく迫ってくる。その右手に南アルプスの甲斐駒から白根三山が、右端には八ツケ岳連峰が、そしてその中間には白く、少し小さく乗鞍岳が一大パノラマとして眼前に展開する。まぶしい一面の雪原を転げるように駆け下りると遠くに見えた芥山小屋は10分ほどで着いてしまった。途中、美しさのため2カ所ほどで写真を撮る。小屋の少し手前で昨夜の同宿者に出会う。「早いですね」「道はトレースがよく付いているので迷うことはないですよ」と声をかけ合う。11時20分、芥山荘に到着すると東京の大学生山岳部員8人が昼食中で、大菩薩嶺から丸川へ抜けたいという。「私がトレースを付けてきたので、大丈夫ですよ」と励ます。

丹波(たば)への長い下り
 奥多摩へ通じる昔の道は、この南稜線の峠から東に直角に派生する稜線を伝って丹波の里へ下る。積雪のために、こちらもまったくの踏み跡がない。支稜線を眺めるも踏み跡は見あたらない。天気は夜まで持つようなので、予定通り丹波に下ることにする。心してオーバーズボンとスパッツを着用。小屋の脇は吹き溜まりの雪で、腰まで浸かってのトラバース道は、北に向かって下り、稜線を間違えないように取り付く。途中からウサギの足跡が導いてくれる。シラビソの枝が積雪に引っ張られ歩きにくい。フルコンバ小屋跡に12時15分に到着。小菅集落への分岐だ。間違えて小菅へ下らないように注意を払う。13時5分、雪で足が膝まで取られ暑さも加わり疲れて小休止にする。午後になり、雪も多く、精神的に少し焦る。メーノダワというおかしな名前の稜線上で13時45分昼食にする。おむすびは固くなっていた。低温のせいだが、貴重なエネルゲンなのでよくかんで食べる。丹波へ2時間30分の標識。雪も多くいつまで続くのか少し心配だが、大きな登りはないようだ。「追分」で再度「小菅」への分岐標識。水筒の水も少なくなったので雪を食べる。15時頃、山道を取らなかったのでマリコ沢で迷う。15時45分小休止する。沢の水がとうとうと流れる地点で、お茶とビスケットを補給。「藤ダワ」を通過したと思いこんで迷ったと思っていたが、16時頃「藤ダワ」に出る事ができた。迷ってはいなかったのだ、これで丹波は近い。貝沢川に向かって大きく北斜面を下って行く。積雪量が少なくなったがグリセードで直滑降で一気に沢まで下る。水量が多く、清流なのでワサビ田を経営していて、青いネットが張ってある。

ついに丹波(たば)に着く
  時丁度にキャンプ場や釣り堀が整備された広くて、美しい清流のほとりの村営グリーンロッジに到着するも、季節はずれで営業はしていない。人気のない静かな山村は、集落が点在していて訪ねるのが容易ではない。ようやく探し当てた民宿は、大正生まれの元気な老婦人が切り盛りする。民宿「奥秋山の家」(0428)88−0327である。品の良い婦人は、村営の温泉に入ってくることを勧める。ご主人は村の教育長を務めあげたばかりで、役職を降りて間もなく脳梗塞で倒れたというが、そのような説明がなければ初対面の人には判別が付かない。昨年掘り当てたという村営温泉(42度)まで20分はかかったが、ぬるぬるした暖かい温泉に浸かり、一日のドラマを完結するにふさわしい湯だ。良質で豊富な湯量の温泉は300円と安く、東京からも日帰り入浴にやってくるという。火照った体のまま、丹波の街道沿いの酒屋で明日の飲料を仕入れて帰ると、夕食が準備されていた。缶ビールも買ってきたが、おこたの上にはそれも準備されていた。昔話を肴に夕食に舌鼓みをうつ時は、タイムスリップをしたような一時である。カイコを飼っていたこと。陣屋であったこと。なるほど尺角のケヤキの大黒柱は小黒と対になっていて見事である。上がりがまちの一枚板も使いこなされた立派な部材だ。カイコを飼っていた2階は、すべて居室に変わり一時は団体客で賑わったが、今は少ないと嘆いていた。ただ一人の客の私もその一室でおこたに入ってゆっくりと疲れた体を休める。
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教職員委員会 私の百名山
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