かけはし12月号の主張
障害者の日に思う
「障害」てなんだろう?
1998年も終わりを告げようとしています。12月は師走とも言う通り、読者の皆様もご多忙と存じます。
今年は長野冬季オリンピックに続いて、アジアでは初めてのパラリンピック冬季競技大会が長野で開催されて、多くの人々が観戦し感動されたことが昨日のようです。
特に長野大会からは冬季競技大会としては初めて、知的障害者の競技も正式種目として実施されるなど、様々な障害を持った多くの人々の様々なスポーツをする姿は感動と共に、「障害」者を身近に感じさせると同時に、私達が持っている「障害」という認識に対しても疑問を感じさせました。
そもそも「障害」とは一体何なんなのでしょうか?「障害」のない人間は「健常」者として振る舞っていますが、障害と健常は分けることはできるのでしょうか?
人生八十年と言われる高齢社会を迎え、これまで問題にならなかった、加齢による老化という「障害」の特徴的なものとして、耳と目でこの問題を考えると違った「障害」の認識を持つことができるのではないでしょうか。
加齢によって能力が低下するものの代表的な部分として視力と聴力があります。
目は視力が悪く待っても眼鏡等で矯正が可能である事と日本人は眼鏡の使用頻度が高いため、視力「障害」とはあまり思いません。
これに対して耳は加齢による聴力低下に対しては「聞こえにくくなった」とは感じても早めの対策として補聴器を使用する人は少数です。
これはどうしてでしょうか聴力の場合、医学的に自己の聴力を把握する機会が少ないこともありますが、多くは自分は「正常」であると思いこんでいるためではないでしょうか。また、難聴、失聴に対する抵抗感も大きいとのではないでしょうか。
しかし、聴力は20歳代から低下し、個人差はあっても60歳代では平均25〜35dB(デシベル)になり、70歳代では30〜40dBに低下すると言われています。
これを障害の判断基準で見てみるとどうでしょうか。現在の日本の身体障害者障害程度等級で見る限り、最低は70dB以上となっていますから「障害」ではないことになります。
しかし、ヨーロッパの国々は40dBにしている所が多く、それ以下の国も少なくありません。
日本の基準では「健聴」者であっても外国に行けば「障害」者になってしまうわけです。「障害」は「健常」とパラレルにつながっており、分けることは困難なのではないでしょうか。たまたま、その時々の区分で分けられている事に私達はあまりにも拘束されすぎていないでしょうか。
「障害」者に優しい社会は「健常」者にも優しい社会のはずです。個人の「障害」の事実はあってもそれに伴う社会「障害」はなくすべきでしょう。これからの名古屋大学も「障害」を持つ人の在学が増えるでしょう。
その時、対処療法的な対応では「障害」と「健常」の差別を温存するすることになりかねません。
建物等の物質的障害の除去は重要ですが、ただ、建物を改装するだけが「障害」対策ではないと思います。
12月9日は障害者の日で す。これは1975年12月9日 国連総会で「障害者の権利宣言」が採択されたことによる ものです。
「障害」者の権利保障の歴史は私達が思っているほど長いものでありません。養護学校が義務化になったのは1979年です。年の暮れの「障害者の日」に障害について考えることはどうでしょうか。
「障害」者の人達ちは今、社会に出てきています。私達も「障害」者も「健常」者も居る社会に出ましょう。
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