魔   言
−その29−



汚れた雪

   
  狂牛病の対策で、その疑いの払拭しきれない国産の牛肉を買い上げ、焼却処分にした。勿体ないけど、国民を安心させるために仕方がない。一つ、対策が後手に回るととんでもないことになる見本だが、エイズの時がそうだったのに、なかなか役人達は学習しないから困ったものだ。その制度を悪用したのが、雪印食品。輸入してあった外国産の牛肉をわざわざ国産牛肉に見せかけて補助金をせしめようとした。それが発覚し、雪印食品は、その他の製品まで、スーパーなどで売ってくれなくなり、随分の損失を蒙ることになった。他の製品は直接関係ないけれども、イメージダウンで、坊主にくけりゃ…の論法でそっぽ向かれた。
  一部の者に責任をなすりつけていた社長も引責辞任した。たとい、一部の者の仕業にしても、誠にいじましい、善意を悪用する、恥知らずだ。倉庫の中で、国産の箱に入れ替え、シールを貼り、輸入用の箱を処分し、と、実際の作業に当たった連中、命令されたのかも知れないが、一体どんな気分だったのだろう。悪いことをやっているのだと思いながらやっていたのかも知れないが、その様子を想像すると何とも空恐ろしい。
  いつぞやの大雨の後、被害の補償金をだまし取った暴力団関係者が居た。金になることなら何でもやる、という何とも言いようのない人達だ。今度の人達も同列、新雪は美しいが、道路に残った汚い雪を連想させた。
(T)  


片足駐車

   
  何というのか知らないけれども、歩道に一方の輪を乗り上げて駐車してあることがよくある。いつぞや、それを痛烈に批判し、歩行者の迷惑を顧みない所行で、こんな駐車方法をしているのは、名古屋が文化的に遅れている証拠だなどと言われたことがある。何もそこまでと思ったし、駐車する方も車道をなるべく広くして通りやすくと思ってしているのだろうからと思っていた。しかし、歩く立場になってみると、言われたとおりだ。ただでさえ狭い歩道―まともな幅のあるところは少ない―、そこに乗り込まれてはたまらない。
  私も道路に車をとめざるをえない時、道の脇すれすれに止めることがある。しかし、反省した。確かに車の通行のためにはそうすることはいいように見える。しかし、そこを避けて、道の真ん中を通らなければならない歩行者や自転車にとっては危険きわまりない。
  土地が狭くて駐車スペースがない、道が狭くて、何とも成らないのだが、出来る限り、こういう駐車はしまいと思う。
  しかし、確かに、名古屋の駐車の有様は酷いものだ。大きな交差点の中に堂々と駐車してある。これなど、却って危険はないのかも知れないが、やはり、車の陰になって、横断する人には危険がある。取り締まる余裕がないと言わず、ボランティアにでも任せて、危険個所の駐車規制を厳しく守らせる必要があるのではないか。運転手も車を降りれば歩行者。是非、他を思いやる気持ちを持ちたいものだ。
(T)  


ところかわれば

   
  インドネシアで「顔にすみを塗る」とは、「恥を掻かせる」ということであり、「顔に炭がある。」というのも恥ずかしいことをいう。丁度、日本語で「顔に泥を塗る」と言うのとよく似ている。ただ、日本語では、泥は塗られっぱなしで、恥を濯ぐのは「顔の泥」を拭っても仕方ない。インドネシア語では、名誉を取り戻す意味で、「顔の炭を捨てる」とか「顔の炭を消す」という言い方があるのは異なる。
  それはともかくとして、テレビの正月番組を見ていたら、何処でだったか、確か、島根県の美保ガ関の話題だったように思うが、無病息災を願って、誰れ彼れとなく、顔に墨を塗りまくるという「墨付け」という行事があると紹介していた。赤ん坊の顔にまで真っ黒に墨を付けていた。塗られた方もこれで一年丈夫で過ごせると喜んでいる。インドネシアの人が見たらどう思うだろうかと思った。所変われば、色々のことが違う、その一つだ。
  「いい子だ、いい子だ」といって頭をなでる。そんなことは、実際にはしないかも知れないが、「頭をなでる」というのは褒める場合に使う。しかし、その風習によっては、ほめるつもりで、子供の頭をなでようものなら、親が血相を変えて怒ることもあるという。神聖な頭、なにしてくれるか、ということだそうだ。
  もう一つ、インドネシアのこういう体に関する言葉で面白いのが、「手を握る」というのだ。日本語では、「結託する」といった悪いイメージもあるけれども、「手を握って、協力する」という前向きの意味で使うのが多いだろう。ところがインドネシア語では、「けちだ」という意味だそうだ。何でそうなるかと考えてみると、日本語では、握る手は相手の手だと思うが、インドネシア語ではそれが自分の手だということで、いわば、「握ったら放さない」ということを含意するらしい。注意しなければならない。
  「額が上げられる」と言っても、日本人には何のことか見当が付かない。「顔が上げられる」なら何も悪いことをしていないから、平気で居ることが出来ることを意味するが、全然違う。「午前8時頃」という意味なのだ。ほぼ赤道直下にあるインドネシアでは(こう言うと本当は誤解を生じるし、ただでさえ曖昧な、日本人のインドネシアというところに対するイメージを一層ねじ曲げてしまうかも知れないのだが、とにかく、インドネシアの中心であるジャワ島はほぼ赤道直下にある)、一年中ほぼ同じ時刻に太陽が昇り、そして沈む。丁度午前8時頃になると顔を上げると額に日が当たるほどになるということから来た表現である。正に風土による表現である。インドネシア人は太陽の高さで時間を知り、日本人は腹で時間を計る。
(T)  



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