魔   言
−その28−



忘 れ る

   
  本当によく忘れる。何でも忘れてしまう。忘れてしまってもいいことと、困ることと有る。一番いけないのが、人との約束を忘れることだ。私は手帳というものを持ったことがない。よく覚えていますねと感心されるが、本当に覚えているかどうかは分からない。今まで大したトラブルもないから、そういうことは大抵は覚えているのだろう。
  1月前にした約束は、書き留めておかない限り、どうだったのか、なかなか確実でない。どうだったかなと思い始めると、もうどうだったか分からなくなってしまう。仕方ないから電話で尋ねる。相手も忘れていることもあり、お互い様なようだ。それでも、ちゃんと覚えている人もいる。逆に、こちらは覚えていて相手を信じていたら、コロッと忘れちゃったという人も居て、困ることがあるが、これもお互い様か。
  最近では、物を何処に置いたか、しまったか、忘れて探すことが多い。物が多すぎてごちゃごちゃしているからだ。いつも身の回りをきちんとしておかなければならない。若い頃はこういうことがなかった。やることが単純だったからだろう。大人達が、「あっ、忘れた」「勘違いして居った」などと始終言っているのが不思議だったし、ウソを言っているのではないかと疑った。しかし、自分がその年になって、本当だったんだなぁと素直に思える。とにかく、あらゆる事をよく忘れる。ただ、色々な日程等については、一定にしておくのが忘れないコツだと思う。何曜日の何時にはこれこれとか、月の何日にはこれこれとか、といったように。変更するとつい間違えてしまう。
  物を取りに行って、何を取りに来たのか忘れてしまうことがよくある。大抵は元の場所に戻ると思い出す。こんな話をすると私も僕もと若い人達も言うから面白い。買い物に行って、肝腎の目的のものは買わずに、関係ないものだけ買って帰り、もう一度行くというようなことさえ有る。こういうときはメモが役に立つ。
  それでも忘れる。そういう話をすると、一様にみんな安心する。私もそうだ、そうだと。とにかくよく忘れるものですね。
(T)  


有効期限

   
  小為替で会費を送金して貰ったが、つい、失念していて換金が遅れた。ようやくのこと、わざわざ出かけて換金しようとしたら、これは無効だ、受け取る権利がないとのこと。
  確かにその裏を見ると、6ヶ月以内に受け取れとあり、更に、1年間そのままにしておくと為替金を受け取る権利がなくなります、とある。
  しかし、これは、勝手な言い分ではないだろうか。小為替も金券の内である。およそ、金券の有効期限というものが不審である。以前、新幹線の切符で失敗したことがあり、このことを書いたが、どなたからも納得のいく御意見や御教示を得られなかった。座席の指定券など、時間が過ぎてしまえば無効になるものは仕方がない。しかし、特急券の料金は期限が来ても有効だと思うが、いっかな、認められない。色々の乗車券類は大抵、有効期間何日と書いてあるが、どうしてなのか。5年も10年もということになれば一寸面倒かも知れないが、なぜ、当日限りなのか、あるいは2日とか4日という事になるのか。「今日乗る切符」と「明日乗る切符」に差が有るとも思えない。同じお金を払い、同じ、乗車の権利を買うのであり、それに有効期限があるのは、何時までも有効では、面倒くさいからとしか思えない。一般消費者を納得させる理由があるのだろうか。小為替も同じ事だ。
  ビール券や商品券には期限は書いてない。図書券にもない。長い間持っていれば、物価の変動で損をすることはあるかも知れないが、使えることは使えるのだ。お金も大抵はそうだ。偽金などが出回って、すっかり変わってしまう場合などには、旧札に一定の有効期間が付けられることはあるけれども、特殊な場合である。
  これも、ちょっと的外れになるかも知れないが、「時効」について、「何でそんなことがあるの?」「悪い事しても時効が来れば、その時から無罪とは変じゃない?」と思って書いたことには、「時効がないと、かえって、捜査当局が一生懸命にならない」からだと、妙に納得のいく御教示を得たことがある。有効期限についてもなんとか納得したいと思う。
(T)  


い た み

   
  体のあちこちが痛いというのは嫌なことだ。出来れば避けたい。中には、堪えられぬ程の痛みに苦しんでいる人もいるが、痛みそのものは目には見えないから、その、当人でないと分からない。リュウマチで、色々なところの痛い人を何人か知っているが、気の毒なことである。
  こんな話を聞いた。痛みがなかったという話だが、考えてみると、逆に恐ろしいことで、ゾクッとした。今思い出しても恐ろしい気がする。
  ビニールの袋に入ったこんにゃくを取り出そうとして、まずは持っていた包丁で袋を切ろうとしたところ、どうした弾みか、袋は切れず、親指を切ってしまったというのである。随分血が流れたそうだ、聞いただけで、ゾクッとする。さぞ痛かっただろうと思ったら、さにあらず、ちっとも痛くなかった、痛みを感じなかったというのである。老人だけれども、痛みを感じないほど、ぼけているわけではない。それどころか、その年にしては、しっかりした人なのだ。ほとんど、すぽんと切れてしまったという。それでも、一月ばかり経って、傷はふさがり、肉も盛り上がってきたというので、医者も感心しているという。切ったときには、医者にも行かなかったそうだ。ところが、自分で手当をしたままで、デイサービスに出かけたら、そこの看護婦さんがびっくりして、直ぐ医者に行かされたというのだ。とても、気丈なお婆さんなのだ。
  この話は、これで直ったから、痛くなくて良かったというものだが、痛みがないということは、一面恐ろしいことだ。医者に行かずに放っておいたら、直ったかどうか、化膿して酷いことにならなかったとも限らない。痛みもないと困るときがある。もし、怪我しても痛みがなければ、もっと酷い怪我になるかも知れない。麻痺して、痛みを感じなければ切られても分からない。酔っぱらいが、知らない内に怪我をしているのも、痛みを感じないからだ。痛みを感じなければ何をされても分からない。
  小泉流経済改革・構造改革など、これから、国民に痛みを強いるという。痛みを伴わない改革などは無かろうが、お手柔らかにしていただきたいものだ。今まで、痛みを感じっぱなしのところでなく、痛みを感じたことのないような方々が痛みを共有していただきたいと思う。
(T)  



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