かけはし4月号の主張

「平和憲章」と大学改革



 2000年という世紀の節目を迎え、社会の構造や意識が大きく変革されようとしている今日、大学も例外ではなく、変革を迫られています。
 しかしながら、今日の大学変革は、内なる必然性に根ざしたものではなく、外部からの政治的思惑や、経済的要求として浴びせられているものであり、必ずしも芳しい方向へと私たちを導くものではありません。

 私たちは13年前、「名大平和憲章」を、全学構成員の過半数の同意をもって制定しました。そこでは、再び戦争に荷担する教育・研究に手をそめないことや、平和を希求する学問の探求を誓いました。そして同時に、地域に開放された大学であることも宣言しました。
 それから13年、この崇高な理念は、私たちの教育・研究に十分生かされ、成果を生んだかと言えば、残念ながら、そうはなっていません。今日の大学改革の議論の中で、平和を希求する学問の推進という、我々がかつて望んだ理想が語られない現状によっても明らかであります。

 その主な原因の一つは、理念では誰もが理解できることですが、いざ具体的に当事者となってみると、研究の内容が完全に戦争と無関係なものはなく、どこかで戦争という重い十字架の影をみます。そして、その研究の成果が、本人の意思とは関わりなく、戦争に利用されるという、社会構造が我々を取り巻いていることです。
 戦争に利用される恐れがあるからと言って、目前の研究を止めることはできないし、その研究で修士や博士の資格を取らなければならない学生もおります。
 このように、全く戦争と無縁の研究は存在しないという厳然たる事実がそこにあり、それこそが日常なのです。しかし、この問題をことさらに強調しても、個人のレベルでは解決の糸口すら見出せません。そうしたことに大きな無力感があるのではないでしょうか。
 ここには大きく政治の問題が横たわっていて、大学の個人では如何ともし難い部分があります。この無力感が、ついには無関心にまで及んだと考えます。
 それと同時に、大学が政治に介入する、あるいは政治的発言をする、というようなことが長くはばかられてきました。むしろ積極的に関わることを否定してきたといえます。

 このようなことから、私たちは大学の内部のエネルギーとして大学を改革するのではなく、外部の圧力に屈して(この表現がいやだという方には「対応」して)変革を受け入れざるを得ないことから、私たちの理想とはあまりにも異なる大学が、今押し付けられようとしています。しかし、今日の状況は、これまでのように単に我慢すれば良いというようなことでは済まされない、最後の一線にあるのではないでしょうか。
 経済効果や国策研究しか認められないようなものは、もはや国立大学として存在する価値もありません。そのようなところから真に創造的な研究や学問が発展することもないでしょう。

 私たちはここで屈するわけにはいきません。かつて、 年前、飯島学長は「命を懸けて誓うもの」と訓示されたように、私たちも正に命を懸けて抵抗しなくてはならない状況にたちいたったのではないでしょうか。
 学問の自由が保障されない「独法化」大学はもはや大学ではないと確信します。形式的な問題もさる事ながら、内省的な私たちの精神の部分での後退は許されないものと覚悟を決めなくてはならないでしょう。悪魔に魂を売ったと後悔せぬように、そして、戦前の名古屋大学が犯した罪、学生を戦場に送ったり、戦争の兵器開発に荷担することのないように。

 前頁                次頁

教職員委員会 かけはし4月号の主張
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp