魔 言
−その24−
上の人達
最近の話題は嬉しいことが少ない。何もかも、行き詰まった感じ。いわば、八方ふさがり。これをどう考え、どう処置していくかが、大げさにいえば、世界を変えていく。もう、これで駄目だ、21世紀の日本はとても暗いとか、世界は破滅だとか、人間滅亡とか、いくらでも、暗く考えることもできる。そういう、データを揃えることも可能だろう。
一酸化炭素の急増と地球温暖化、海面上昇。氷河の融解。洪水発生。人口爆発。食糧危機。経済のブロック化、核戦争、環境破壊、人類滅亡。思いっきり、負のイメージを膨らませていけば、紆余曲折はあっても、結局人類の滅亡だ。
しかし、全く逆の展開も考えられる。いくつかの条件が必要だけれども。誠に大げさだが、例の新潟県警の数々の不祥事。これ以前にもいくらも警察に対する不審・不信感は、各地の警察での出来事で国民の間に広がっいた。その最中での出来事だけに、もう呆れ返るより他はない。国民を馬鹿にしきっているとしかいいようがない。長年の慣行なのだろう。彼らにとっては当たり前のことなのだろう。公安委員会の処分についての見解にも開いた口がふさがらぬとはこのことだ。同じ穴の狢なんだろう。「一時の感情論で事を決めてはいけない」と至極最もらしいことを言うが、正論らしく見えて何も事の真相は突いていない。国民の感覚こそ大切にされるべきなのが、民主主義だろう。この馬鹿げた議論がますます不信感を買った。正に、病膏肓に入ったということで、真面目な警察官達がかわいそうだ。
ただ、警察庁の長官の減給とか、警察本部長の退職金辞退とかで事は済むのだろうか。国家公安委員長やその又上の総理大臣が、責任を免れることであろうか。先の、金融担当大臣の調査に手心の発言での辞任も、自民党ではそんなことで辞任していたら今までどれだけ大臣を辞任しなければならなかったかなどという擁護論があったというのにも反省のなさを露呈している。それが通用していたのだろう。又、それが通用すると思っているのだろう。即刻そういう人達には国会議員を止めてもらわねばなるまい。是非、氏名を公表して欲しい。国家国民に関する議論である。秘密にする理由はない。そういうことを明らかにすることこそが、マスコミの大事な使命ではないだろうか。それで、韓国のように、落選運動をしようではないか。
総じて、こういう、上の悪い人達の所行が明らかになることはいいことだ。今までこういうことがなかったはずがない。知られなかっただけだ。それが知られるようになったことはいいことだ。しかし、まだまだ足りない。マスコミに頑張ってもらわなければならないが、現在のような体制ではやはり限界があろう。全国のマスコミが全部NHKでなくてもいい。大新聞もほとんど中立であるが、もう少し、責任ある政党がバックになったものが、赤旗以外にもあっていいと思うがどうだろうか。むやみな中傷合戦は困るが、はっきりした主義主張のもと、責任有る議論をそれぞれに展開できないだろうか。今のマスコミでは隔靴掻痒の感が拭えない。恐らく、それに携わっている人々も同じ感慨を抱いているのではなかろうか。あまりな言葉咎めの風潮も自由な議論を疎外しているように思う。自由な議論、公開された議論から少しでも良い物が生まれ、悪い物が淘汰されていくことを期待したい。
あまりに楽観的すぎるでしょうか。
(T)
外形標準課税
東京都の石原知事が、大銀行を対象に「外形標準課税」ということをやろうとしていて、政府が、手を代え品を代え止めさせようとしているが、どうも止めさせる手だてがないらしい。
個人的なことを言えば、私はどうも石原さんは好かない。でも、今回の措置に対しては拍手を送りたい。とともに、政府のいい加減な、百年河清を待つような、大事なことを放ったらかしにしてきたことに対して厳しく責任を追及したい。もう、何十年来の懸案だったというではないか。関係者はみんな知ってて、知らん顔を通してきたのだ。曰く、企業が反対したの、経団連が反対したのと。税金を掛けられる方が、喜んで賛成するはずがない。いいわけにしか過ぎない。
銀行も反対するなら、きちんと、給与水準も公開して、経営努力をして、ギリギリのところこれこれですと全てを公開するがいい。今回、政府以外誰も銀行をかばわないには、それだけの訳のあることを知らねばなるまい。これをかばう政府も疑われたくなければ、国民の多くの支持するこの方針を支持し、制度を早急に国民の多くが納得できるものにすべきであろう。
(T)
ジーゼル車規制
これも、東京都の石原都知事の方針に拍手。
乗用車の排出ガス規制をどれだけ厳しくしても、ジーゼル車の排ガスを今のままにしては、何にもならない。いかに乗用車の排ガスを今より倍の厳しさにしたところで、ジーゼルトラックをそのままにしては、環境の浄化に、効果は上がらないだろう。正確にはわからないが、トラック一台の排ガス中の有害成分と、比べたら、ひょっとしたら乗用車1,000台分以上のそれに匹敵するのではなかろうか。
平成18年から(というのは遅すぎるように思うが)、東京都内を、粒子状の排気ガス中の物質を除去する装置を付けていないジーゼル車の通行を禁止するという方針を決めたという。例によって、その装置が有効かどうか分からぬとか、装置が高すぎるとか何とかいっているのが、政府の、環境の悪化を防止する責任のある立場にある人々。効果が期待できぬとというなら効果の期待できる物を作るようにすべきであろうし、費用が掛かりすぎるということをいうなら、そういうことこそ国の責任で、工夫すべきであろう。何ということか。本末転倒、全て基本的に大切なことを忘れて、枝葉末節に関わっている。其れが責任有る立場か。
そんなへなちょこは即刻やめて貰いたい。自分がどういう立場にあるのか、どういう役割を期待されているのか、よくよく考えて貰いたい。この前の、テレビを見ていて、通産省の役人はともかく、環境庁の役人の自信なさと、責任のなさ、肝っ玉の小ささをまざまざと感じた。自分たちの保身のことしか念頭にない、こんな人達には任せられない。
もう、こんなことを何時までもこのままにはしておけない。環境の悪化は、人類の存亡に掛かっているのだ、それも、もう、余り時間的余裕はないのだ、金が掛かるの、効果がどうのとは言っておれないのだ。
(T)
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