魔 言
−その22−
史上最大の発明
こんな題名の正月テレビ番組を少し見た。飛行機だの、コンピュータだの、顕微鏡だのと他愛のないことを言っていたので、見さして風呂に入ってしまった。でも、多少気になったので、出てからまた見た。全部は見ていなかったので、細かいところでトンチンカンな事を言うかも知れない。七人の出演者(確か、「評議員」と呼んでいた)は、最終的にそれぞれ「言語」「アラビア数字」「小説」「コンピュータ」「顕微鏡」「文字」「日時計」を一位に上げていた。七人の投票による得点では、このほか、十位までに、「農業」「電話」「民主主義」「酒」があった。(同率で、十位が二つあるから、全部で十一項目ある。以上は、ちょっと間違っているところがあるかも知れぬが、大した間違いはないと思う。)
また、視聴者の集約された意見では、一位「言葉」、二位「文字」、三位「電気」、四位「火」、五位「農業」だった。(以下、「言葉」と「言語」は同じものとして扱う)。
その評議員全体の第一位が「文字」、視聴者の意見でも「文字」が二位であったことには、大いに我が意を得た。一体、何を選ぶか、気になったのでわざわざ見直したのだが、自分が、これしかないと思っていた「文字」が第一位(視聴者では、第二位)であったことに意を強くした。ただ、評議員の中には一位に指名したのはただ一人、そして、この結果について全員余り納得していないようだったのも、「文字」について十分その意義を考えていないからではないかと思った。中に、文学者と思える出演者が、「言語」が上位概念なのにそのなかにふくまれるもの(文字やアラビア数字を言っているらしい)が、それより上位というのは変だといっているには、少々鼻白む思いだった。もうちょっと考えて貰いたいものだ。「文字」(アラビア数字も「文字」の内だろう)は言語の下位概念か。迂闊に考えればそういう答えもあり得ようが、「文字」と「言語」は別物だ。このことはまた、あとにしよう。
技術系の人が、文系の意見が強すぎて、技術が無視されていると、ぶつぶつ言っていたのはみっともなかった。確かに、技術的発明が、人間の生活をどれだけ便利にしたか、それは言うまでもないことだ。しかし、その発明の基になった発明は何か、ということを考えれば、かなり妥当な結論だろう。やはり、「もの」だけでは人間はどうにもならぬ事を人々がようやく認識し始めた兆候だと思った。
ただ、「言語」は人間の発明かどうか。私は、これは発明ではないと思う。人間の生得の能力のような気がする。「火」にしても、発明ではあるまい(ランプなら発明だろう)。その意味で、「電気」も発明品ではなく、その利用方法が発明だろう。「農業」や「酒」も発明というにはそぐわない気がする。その他は「民主主義」も含めて発明と言ってよかろう。
これを分類すれば、人間の能力を増大させるもの「顕微鏡」(「視力」)、電話(話す力と聴く力)、コンピュータ(計算と分類)と、日常生活に便利な「日時計」、人間生活に特にどうということはないが、やはり必要な「小説」というように分けられる。
ところが、これ全体を成り立たせるのは、やはり「言葉」だろう。しかし、これは、発明品ではないと思う。それで、「史上最大の発明」から私は除く。言葉のもてる力を最大限発揮させるのが「文字」である。一回限りの言葉は消えて無くなる。遠くにも届かない。蓄積が出来ない。人は、そのために、文字のない社会においては、言葉(による知識)を「記録」するために記憶のいい人に覚えさせた。「語り部」である。今も世界の各地に存在する。覚えるには、韻文の方が便利だから、文章の世界では、大抵、韻文が先に出来ている。
しかし、語り部は生き物だからいずれ死ぬ。覚えたものをそのまま保存する方法はない。また一から出直しである。生き物だから眠る。都合のいいときにいつでも、その記憶を引き出すことは出来ない。現在ではテープレコーダーがその役割をして便利だが、これも、再生機が無くてはダメだし、電気がなければ役に立たない。見たいところを簡単に見ることも本より難しい。コンビューに依れば簡単に見たいところが検索できるだろう。しかし、やはり、エネルギーと機械がいる。壊れることもある。
「文字」はその意味での言葉の貯蔵方法として極めて優れている。紙や筆記具の発明もあり、極めて効率的に言葉を貯蔵・再生できる。保存方法もさほど難しくない。この「文字」の発明がなければ、人間の知識もなかなか蓄積しなかったであろう。言葉だけなら、もちろん、その機能的な面には違いがあるにしても、何種類かの動物にも有ることが知られているが、さすがに「文字」は知られていない。「文字」は人類に計り知れない福祉を与えてきたが、詰まるところは「道具」であり、使い方を誤ると人間に危害さえ与える。このことは、銘記しておかねばならない。
このほか、医学関係の発明も大切なものがある。お金というものも人間をダメにもするが、非常に大事な発明だと思うが、この番組には出て来なかった。
ことのついでに言うと、日本人の発明のうちの最大のものは、いつぞや、どなたかがNHKの番組で言っていたが、「仮名文字」である。現在これがなかったらと考えれば、その恩恵がよく分かるだろう。漢字だけでも、ローマ字だけでも日本語はうまく書き表せないのである。
(T)
NHKは弱者切り捨てか
こう言えば、そんなことはありません、絶対にそうではありません、というに決まっている。しかし、本当にそう言いきれるか、はなはだ疑問だ。時には気の毒なくらい気を使っている、気の使いすぎだと思うことすら有る。だから、悪気が有ってではないと思うけれども、やはり、気配りの足りないということはあるだろう。私自身が、気配りを受けなければならないというわけではないが、テレビを見たり、ラジオを聴いたりしているうちに、ふと、こんな事を言ったら体に不自由なところのある人々だったら、どう思うだろうかなぁ、と思ってしまうことがある。
考えすぎだという事なかれ。体の丈夫な人は、つい、そうでない人のことを忘れてしまうのだ。それで、徒然草には「友とするに悪ろき者」七つのうちに「わかき人」についで三番目に「病なく身強き人」を上げているのである。なぜか。やはり、同情が足りない、一生懸命つとめてもやはり、それはうわべだけなのだ。心底そう思っていない、無理だといえば無理かもしれない。五体満足の者には。そういう、五体満足の者が見ていてすら「これは、…」と思った。皆さんは見逃したかも知れないし、ひょっと同じ思いをされたかも知れない。
随分前置きが長くなった。
一九九九年を締めくくる(というのは、言い過ぎかも知れないし、反発を食らうかも知れないから、撤回してもいい)NHKの紅白歌合戦(実は、この「合戦」というのが、NHKは好きで、私は嫌いなのだが、それはともかくとして)で、私がちょっと見た、丁度その時に、野球の王貞治氏・柔道の山下泰弘氏・相撲のもと千代の冨士九重親方が出てきた。いずれも、錚々たるスポーツ界の大立て者、大晦日ならではの顔合わせ。それはそれでいい。その三人の方々の励ましの言葉も一々覚えてはいないが、よかった。でも、それは、五体満足の少年少女達への励ましだった。このとき、そうでない者への言葉を期待するとすれば、むしろ無い物ねだりだろう。そこまで、気を回してくれとは言いにくい。出演した三人に少しも罪はない。
しかもなお、そうしたくても出来ない、悔しいけど何ともならない、という思いをした人達がたくさんいて、それを見て聞いて満たされぬ思いを持つ者、不満を抱く者があったということだけは、天下の NHKさん、是非意識しておいていただきたいのであります。
(T)
前頁
次頁
教職員委員会 魔 言
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp