魔   言
−その18−



お釈迦様とオウムと

   
 インド思想史を専攻とするという人の「慈悲の危険性をめぐって」という文を読んだ(『春秋』406 1999)。「ナーガセーナへの問い 4」という連載の一編である。
 全知者ゴータマ・ブッダならダイバダッタがサンガを分裂させる大罪を犯すということは初めから分かっているはずであり、それを出家させたのはおかしいのではないか、出家さえさせねば大罪を犯さずにすんだ筈で、ゴータマは随分残酷な人だということになるし、残酷な人でないとすれば、全知者ではないということになるという。これを、ミリンダ王が、ナーガセーナに問うている場面である。それに対し、ナーガセーナはブッダの慈悲をもって答える。そして、もしダイバダッタが出家しなかったなら、その苦しみは、出家したダイバダッタよりどれだけ重かったかを説く。
 ここで、かの思想史家はいう「読者諸氏はもう気づかれたであろうが、ナーガセーナのいっていることは2000年の時を隔てて、オウム真理教のいっていることとパラレルなのである」、として、ナーガセーナの言葉の一部をオウムの言葉と入れ替えて示し、「筆者はナーガセーナに問いたい。あなたは、地下鉄サリン事件の責任をどうとるおつもりですか、と。そしてまた、同じ問いを、大乗仏教と密教の流れを汲んだものである日本仏教の全宗門の門徒たちにも投げかけたい。」と。
 うっかりしていると、全仏教徒がオウムと同じ扱いをされかねない。こんなまやかしの論理にでもだまされる人は多いだろう。しかし、根本的に間違っている。こんなばかげた議論を展開する人が、学者として、大学の教授であるということが不思議だ。
 簡単な話。この人は、言葉というものの本質を全く知らない。同じ言葉でも言う人・時によって全くその意味と価値が異なると言うことを。たとえば、一人の小学生が、「私はNATO軍にユーゴ爆撃停止命令を出すであろう」といったとします。誰が信じますか。ところが、この同じ言葉を1999年5月15日にNATO軍司令官とアメリカ大統領が言ったとしたらどうでしょうか。
 ゴータマ・ブッダとナーガセーナの言葉と松本なにがしの言葉が同列でないことぐらいまともな判断力が有れば分かる。ことばは、人間を離れては本当のことは分からないのだ。 そういえば、この文章の中で、「ゴータマ・ブッダの慈悲の、きわめつけの正体を露わにする切り札」といった言葉が使われる。「きわめつけ」などという言葉は、マイナスイメージの強い言葉であり、それに続けて「正体」といえば、まるで魔物を見るようである。そんな、イメージをもって観察すれば、アバタもエクボの反対、すべておかしく見えるのであろう。
 ついでに言っておけば、「全宗門の門徒」という言葉遣いは正しくない。「門徒」は一部の宗派の信者しかささない。そんなつもりではなく、全仏教徒を指しているのであろうが、ついうっかり、全宗門といったので門徒といってしまったのであろうが。この文章の筆者の言おうとすることを忖度すればそうなる。他人の文章は、その人の書きたいことを推定して読む親切が必要である。その意味で、私はこの「門徒」を「仏教徒」と読む。この思想史家も、虚心にナーガセーナの言葉を読まれるとよい。


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