魔 言



比較語彙論

   
 比較語彙研究についての本を出してくれるという本屋さんが現れ大変喜んで張り切っている。まだ、一書に纏めるような形を整えてないので、今まで学生にコピーを配る面倒を避けるために、「語彙研究資料集」として印刷していた図表や論文を、順序づけ、重複した部分を削り、足りない部分を書き足そうと考えている。
 「比較語彙研究」ということについて、最近いろいろの形で、いろいろなところに書いている。この中心的なコンセプトは、「比較」「語彙」、それから比較すべき対象としての「語彙」とその選定法、そして、比較の「方法」である。 「比較」については、比較言語学でいう所のそれより広く、言葉の本来の意味での「比較」を言うことにしている。これは、その比較する対象が「意味」を中心としたもので、特に同系の言語に限る必要が無いことからである。従来、こういう場合「対照研究」と称していた。これを「比較研究」というのはものを知らぬようであるが、そのことを承知で使う。もともと、「比較」などという極く普通のことばに特殊な意味をもたせ、それ以外に使うなというのは土台無理な話だ。もちろん「対照研究」といってもよいが、その中で一度も「比較」という語を使わずに済むだろうか。難しいと思う。こういう二つの理由から、同系であろうがなかろうが他言語間の語彙の比較を「比較語彙研究」と称することとする。
 さらに最近、「比較語彙研究」とは語彙研究そのものだというように考えるようになってきている。というのは、比較語彙研究で比較の対象になるものは、上述のように他言語の語彙だが、この「他言語」とは、その文化背景を異にした言語ということで、従って、従来から、歴史的背景を異にした言語、古代語と現代語は同じ日本語であってもその比較の対象になるものと考え、語彙史研究の方法を提供するものだと言ってきた。それを、さらに、個々の言語作品はそれぞれその成立した諸々の背景を同じにするものはなく、同じ言語体系に属する言語を使っているとしても、その全体としては、その成立の背景(これをその作品の文化背景といってもいいと思う)を異にするものと考えられると思うようになってきた。こうなると、比較語彙研究は同一言語内における語彙比較であろうと、体系を異にする言語の語彙の比較であろうと、それら全てを含み、まさに語彙研究そのものだということになるというのである。
 「比較」の方法としては「意味構造分析法」ということを提唱している。もう少し詳しく言えば「語彙をその意味分野別の構造に分けて分析する方法」とでもなろう。そのためには、語彙を形成する「単位」である「語」に一々意味コードを付けなければならない。なかなか大変な作業である。そもそも語彙研究は手間暇がかかり、成果の現れにくい分野である。一つの作品の語彙を取り出すだけでもかなりの作業を要する。幸い、現在はコンピュータがそのよき道具である。
 従来、語彙研究というと、品詞別に語を分けたり、語種別にしたり、使用率を論じたりといった数量的な扱いか、さもなくば個々の語の意味用法や語源研究あるいは、語構成の研究が大半であった。個々の語の研究はまことに盛んであり、成果も上がっている。一方、語彙全体を扱う部門はそれほどでもない。語彙全体は、数量的研究だけでは、その一般的・数量的特徴は描けても、個々の言語作品や言語資料の語彙の真の姿に迫ることが困難であった。語彙はすぐれて意味的存在であるが、それを逃してしまうからである。ただ、語彙はあくまで数量的存在でもあり、意味と数量を生かした分析法がどうしても語彙を明かすには必要である。意味は、しかし、もっとも数量化になじみにくい。それを満足させる分析法が「意味構造分析法」である。
 簡単にいえば、意味をいくつかのカテゴリーに分割してコードを与える。そして、語彙を構成する個々の語をそのカテゴリーに当てはめてそのコードを与える。そして、コード毎に集計して、その語彙がいかなる分野の、いかなる割合によって出来ているかを知ろうとする分析法である。その意味分野別構造にその語彙の特徴が現れるのである。ただ、いうべくしてさほど簡単ではないが、これによって、初めて他の方法では、明かすことができなかった語彙の特徴が見出されるのである。これと比較すべき語彙を適切に選定することにより、比較語彙研究は確実に、その文化背景にまで射程を延ばしたのである。(T)
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