魔 言
−その21−
いかり〜これをどうする
感情の動物、人間には「いかり」は誰にもあるのでしょう。「いかり」を滅することができればどんなに楽でしょうか。悟りの開けない、凡夫の私は始終この「いかり」に悩まされています。その処理法を今まで種々工夫してきました。これがいいとは決して言い切れませんが、現在までの到達地点を明かしておこうと思います。
いかりにもいろいろあります。全く個人的な感情的なものから、世の中の不公正に対する公憤に至るまで、正に種々雑多。指導する立場から叱責することがどうしても必要なことがあり、巧く叱ることが大切な指導法になることもあります。これも「いかり」の一種かも知れません。ただ、これはこれで、感情的な「いかり」とは別のもので、必要なものと考えますので、このことは、ここではふれまいと思います。
種々ある「いかり」に従って、その「いかり」の処理の仕方も一様ではありません。個人的な感情を人々に共有して貰うわけにはいきません。正にそれは、個人的愚痴に過ぎません。もつとも現代社会においては、此の、個人的愚痴の処理が、大問題。なかなか、それが聞いて貰えないことが、色々な問題につながっていきます。定年後、暇ができたら、お祀りしてある愚痴聞き地蔵様を本尊に、私が、愚痴を聞く役でもしようかと思っています。
それはともかくとして、こういった種々の「いかり」をどう処理したらいいか。
私は、ともかくもそれを書き留めておくことにしました。腹立ちまぎれに、怒鳴ったり、喚いたりしてはろくな事はありません。中には思ったことをいってスッとしたという人が居るけれども、言われた方のことを考えてもみなくてはいけません。言った方がスッとした分、言われた方はムッとしたでしょう。それでは「いかり」を残してしまいます。一旦口に出して言ったことは取り返しがつきません。口に出す前に考えてみる必要があります。尤もそうしている内に言う機会を失ってしまうことも度々ですが、本当に言うべき事なら、後からでも遅くありません。私は、この頃は、そういう時じっと黙っていることにしました。多少気まずいかも知れませんが、大声で怒鳴ったり、的外れな意見を言うよりはよほど後はおさまりがいいようです。一晩寝た後で、振り返ってみると、一体何を「いかっ」て居たのかさえ分からないときがあります。分かっても、何だそんなことを、とばかばかしいことが大半です。本当にそうです。それを書いておいてみれば、はっきりします。言わなくてよかったと思うことばかりです。大方はこんな類です。私の「いかり」は。
これよりも少し個人的感情を離れた場合も、「いかり」を感じたときはそれを書き留めておくことです。後で見ても、自分自身でばかばかしくないならばもう少し待ってみても良さそうです。人々と「怒り」を共有できるかも知れません。いわゆる「公腹立たしい」部類に属するのかも知れません。現代社会においては、世の中に対して不平不満・不公正感・なにやらいい知れない腹立たしさを持っていない人は少ないと思います。身勝手な不平不満もあるでしょうが、一旦それを書きとどめて客観化してみるということは必要なことではないでしょうか。なにやら腹立たしいというだけでは仕方有りません。きちんと形にしなければなりません。形にならないようなものはどうでもいいものかも知れません、あるいは、大事なことでもまだ何ならもやもやとして形を得ないようなもので、ひょっとしたら世の人々共有の閉塞感といったものがあるのかも知れません。もしそうなら、そうで、それを何とか形にして、みんなとその「いかり」を共有して社会をただす力にしなくてはならないと思います。
ところで、私は個人的に何とも腹立たしいけれども、公開することはできないが、かといってばかばかしいと破棄してしまうことのできないような「いかり」がある。丸秘ファイルとして取ってある。関係者や私の生きている内は公開しまいと思う。(T)
すわる〜腰を伸ばす
腰骨を真っ直ぐに伸ばして坐る。すると、不思議なもので種々の効用がある。夜中に目が覚めて困るようになったのは、早く寝過ぎるのかも知れないが、年齢のせいかもしれない。時々そんなことがある。そんなとき、眠たいのだがなかなか寝付けない。一生懸命寝ようと思う。翌日いろいろ予定が立て込んで、早く起きなければならないときなど、焦る。焦れば焦るほど寝付けない。こんな経験が一度ならずある。人にもよく聞くことだ。
こんな時、私はこの頃は無理に寝ようとするのを諦めた。布団の上に正座をする。堅苦しいことではない。ただし、腰をピンと伸ばして坐る。腰の痛みのあるときもそれが取れるように思う。整形外科で首を引っ張っていわゆる牽引ということをやるが、頭全体が、何かに上から引っ張られるくらいの気持ちでピンと腰を伸ばすとそれでとても気分爽快になる。いろんな雑念が次から次に浮かんでは消え、消えては浮かぶが、なるがままにしておく。あえてどうしなければ、こうしなければと考えない。やけくそとも違う。すると、頭の中もすっきりする。もやもやしたものもとれる。坐禅の効用のようなものだ。それを坐禅というと大げさに聞こえる。曹洞宗の管長さんの板橋興宗さんが「坐禅という言葉は使いたくない」といっていたのを読んで合点した。腰を伸ばして坐ればいいのだ。足を組む必要もない。どうしても足を組まなければということになれば、組めない人にはできないことになるが、それでは困る。
もっとも、長時間ということになれば、足を組んで坐るのが何より安定していることは確かだ。正座よりも、胡座よりも、また、寝ている姿勢よりも。短時間ならば、正座でもいいし、腰掛けていてもいい。やってみて下さい。
(T)
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